爪先からムスク、指先からフィトンチッド
珍しく歯切れの悪い真菜に芳香は不安を感じる。
「人事の子と話してたんだけど。兵部さん、フランスの有名メーカーから引き抜きの話が来てるんだって」
「フランス?」
「うん。この前出した香水がやっぱり高評価らしくてね。是非、調香師として迎えたいって話が持ち上がっているみたいよ」
「そう、なんだ……」
薫樹が調香した香水『TAMAKI』は思った以上に高評価であった。香水の本場であるフランスでも一目置かれるもので、珍しく日本人の調香師が世界進出したのだ。薫樹の勤める『銀華堂化粧品』は、並の企業からのヘッドハンティングには不快感を示し、応じないであろうが、自社の調香師が海外進出ともなれば会社にも箔が付くだろうと反対をしない。寧ろ勧めるほどのようだ。
「こんないい話、薫樹さん、断るわけないよね……」
「だから芳香ちゃんと一緒に行くのかなって」
「フランスかあ……」
芳香は薫樹と一緒に居たいと願ってきたが、それは今、ここでの話で、外国でとは想像もしたことがないため、混乱してしまう。
「ごめんね。余計なこと言って……」
「ううん。いいのいいの。話してくれるタイミングがなかったのかもしれないし」
「うん。うまくいってると、そういう事話すのが後回しになっちゃうのかもしれないね」
「ん……。そうだね」
真菜とまた会う約束をして芳香は薫樹のマンションへ向かう。いつもより重い足取りで。


薫樹のマンションに入ったところで電話が入り少し帰宅が遅くなると言われた。
部屋に入る前であれば、外で時間をいつもつぶすのだが、今日は部屋に入った後だった。
がらんとした無機質な部屋は素っ気なく芳香を迎える。ソファーに腰を下ろし、薫樹に来ているというフランス行きの話を考える。
「フランスなんて……」
フランスで生活することなど全く自信がない。今日、薫樹はこの話を聞かせてくれるだろうか。
実家から帰ってやっと二人でゆっくり過ごせる時が来たが、フランス行きの話が気になってしょうがない。
薫樹は帰宅すると真っ先に芳香を抱こうとするだろう。真菜にこの話を聞くまでは、芳香も薫樹に真っ先に抱いてもらいたいと思うだけだった。
気を重くしていると、ドアの開く音がし、スーッと静かな足音が洗面所へ向かい、水が流れる音が聞こえた。
薫樹が手と顔を洗い、涼介にもらったマウスウォッシュでうがいをしているのだ。
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