爪先からムスク、指先からフィトンチッド
改めて芸能人を間近に見ると、恐ろしく一般人とは、もちろん自分とは違う生き物に見える。
「はあ……。ため息しか出ないや」
何をしに来たのかよく分からなくなったが時間が迫ってきたので急いで店に帰ることにした。


14 園芸ショップ『グリーンガーデン』
「戻りましたー」
「おかえり、どうだった? 撮影は」
店長の小田耕作が目じりを下げて尋ねる。
「人が多すぎてあんまり見えなかったです」
「ほお、そいつは残念だったねえ。彼氏には会ってきたのかい?」
「えっ、いえ。彼は仕事中だったかな。えっと水やってきます」
「うんうん。外のハーブに頼むよ」
「はーい」

――この園芸ショップ『グリーンガーデン』は真菜が仕事帰りに立ち寄るスーパーの店舗内にあり、小田耕作とその妻、木綿子の夫婦経営だ。アルバイト募集中の張り紙を真菜が見ていて芳香に情報をくれたのだった。
面接に来た時に初老の小田夫婦のおっとりした優しい様子と、販売している花が主に夫婦が大事に育てているものであることに芳香は感動し、是非ここで働かせてほしいと頼んだ。
小田夫婦としては芳香の熱心で誠実な態度に喜びを見せたが、反面、アルバイトであり、給与の低さで芳香を心配した。店の売れ行きは良いが実際のコストなどで高額の時給は払えずいつも学生のアルバイトでまかなっていた。更にサービス業であるため日曜日と祝日も勤務となる。
それでも生活はしていけそうであったし、何よりも香りのよい草花に囲まれるととても気持ちが良いということで勤めることとなった。
勤めてから耕作は主にハーブの知識を与えてくれ、木綿子は花束のアレンジを教えてくれる。
子供のいない小田夫婦は芳香をとても可愛がってくれており、芳香も二人を慕っている。とても良い職場だ。

また夫婦は芳香の恋人の兵部薫樹のことも知っている。なぜなら、薫樹がわざわざ「フィアンセをよろしくお願いします」とあいさつに来たからだ。
芳香も小田夫婦もその挨拶に驚いたが、薫樹は好印象だった。そのあとしばらく夫婦に芳香は冷やかされることになる。

小さなポットに入ったバジルを眺める。まだ小さい苗だが葉はツヤツヤとして芳しい香りを放っている。
先月、木綿子の手作りであるバジルソースをもらった。夏から秋にかけて収穫ができるバジルはいつもソースにして冷凍保存しておくらしい。店で売っているジェノベーゼと違い、木綿子のバジルソースには松の実もニンニクなども入っていなかったが、香りが高く濃厚だ。
そのソースを使って薫樹にバジルパスタを振舞うととても喜んで食べた。
「私ももっとハーブでお料理作ってみたいなあ」
今度は薫樹と一緒にお手製のフレッシュミントティーを飲ませてあげたいと思いながらハーブの世話をしていると、さっきまでの不安感がいつの間にか消えていた。



15 薫樹の香り

会社の研究室で薫樹は自分の指先を嗅いでみたが、匂いがわからない。
「本当に匂いがあるのだろうか?」
一度指先の香りを調べるため、識別装置にかけてみたがなんの成分も出てこなかった。
「匂いがわからないなんてことがあるのだろうか」
芳香がいい匂いだとうっとりするが、今まで誰にも指摘されたことがない。自分の体臭は自分ではよくわからないというが、どうなのだろう。
椅子に腰かけ、首をかしげているとノック音が聞こえたので「どうぞ」と招いた。
「失礼しまーすっ」
「ん? 野島さんか、何か用?」
「えー、用っていうかー、会いに来ただけです」
「勤務中なんだが……」
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