爪先からムスク、指先からフィトンチッド
「こんなに綺麗にしてたら風水的にいいはずだよね」
雑誌の風水特集というコーナーをチラッと見て生成りと藍染のファブリックに囲まれた部屋を眺める。1dkのコンパクトな部屋は質素だが清潔だ。掃除がしやすいようにインテリアなどはない。軽くあちこちを水拭きし、本日の掃除を終える。ぬるめの風呂に長く浸かり、しっかり汗を出した後、洗いたてのリネンのパジャマとコットンの寝具にくるまれて心地よく眠った。



7 匂いの誘惑
 平和な日々を過ごし、帰宅しようとする芳香を後ろから薫樹が呼び止める。
「柏木さん、ちょっと待って」
「あ、兵部さん。な、何か」
「ちょっと食事に行かないか」
「えっ? 食事ですか?」
「用事でもあるの?」
「え、いえ。ありませんけど」
 早く帰宅したいが高圧的な態度を目の前にすると何も言えない。
「じゃ、行こう」
 靴を脱ぐことがないように祈りながら芳香はついて行った。

 大通りを抜け屋外にも席のあるカジュアルレストランに着いた。広々としたテラス席に案内され芳香はほっとして席に着く。
「この前はすまなかった。ご馳走するから好きなもの頼んで」
「え、そんな、別に、いいんですけど」
 少しだけ柔らかい雰囲気を見せる薫樹の顔を改めて見る。眼鏡と白衣のせいで冷たそうに見えたが、実際は奥二重で三日月眉の優しい顔立ちだ。『匂宮』とのニックネームは伊達ではないなと平安貴族的なはんなりとした様子に芳香は納得する。
「食べないの?」
 チーズアラカルトを見つめるだけの芳香に薫樹は勧めてくる。(チーズかあ……。美味しそうだなあ……)
「えっと、あの」
「匂いを気にしてるのか」
 ふっと薫樹が優しく笑んだ。
「あ、はあ……」
 チーズをはじめ、できるだけ匂いのもとになりそうな刺激物は控えているが目の前の高級で芳しい香りが芳香を誘惑する。
「平気だよ。君はサプリとかも恐らく試してるだろう? なんの変化もなかったはずだ」
「た、確かに」
 体臭が花の香りになるというサプリメントを飲んだことがあったが、足はおろか身体や息にすら影響はなかった。
「じゃ、いただきます」
 恐る恐るハードタイプのチーズを一切れ口に入れる。
「なにこれ、すごい美味しい!」
「スペインの山羊のチーズだよ。赤ワインに良く合うから」
 躊躇っていたワインにも口をつける。
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