爪先からムスク、指先からフィトンチッド
擦り切れたジーンズと寒空の下、薄いシャツ1枚の環にマリーは同情の目を向ける。
「あの、あなた、一人なの? 友人とかご家族とか。どこに住んでらっしゃるの?」
日本人は裕福だと彼らも思っており、実際に日本人留学生は裕福層が多いため、環は非常に珍しく映る。
「え、と、この通りを右に曲がったパン屋の上です。独りです」
環の話を聞きながらマリーはどんどん彼女に傾倒していく。
「ねえ、あなた、うちにいらっしゃいよ。きっとこれは神様の思し召しだわ。クロエが生きていたらあなたと同じ歳になる。ねえ、ジャンそう思わなくて?」
すっかりその気になっているマリーを優しく見つめるジャンは環の靴の匂いが気になっていた。
「ふむ。そうかもしれない」
「あ、あの……」
戸惑いを隠せない環はどうしたら良いのかわからない。遠い異国の地で初めて会った夫婦にうちに来いと言われる。二人が悪人ではないと信じたいが、警戒心を緩めるわけにはいかない。
落ち着きなく目を泳がせる環にジャンが名刺を渡す。
読めないフランス語であったが、裏を返すと英語でも書かれてあり読むことが出来た。
「調香……学校。ジャン・モロウ……」
「確か、あそこが今度モデルをオーディションするって言っていたな。公開じゃないから情報は知ってるものしか知らない。私の紹介だと言いなさい」
「え、で、でも……」
「まさか、君は実力だけで勝負したいとか言わないだろうね。国籍ですら不利なのに。ちゃんとチャンスを使うように。ダメな時はそれでもだめなのだから」
マリーは優しい目で頷きながら環を見つめる。
「あ、ありがとうございます」
初めて希望の光が見え始めた環は頭を深くさげた。
「今日は、ここで失礼するわ」
二人の夫婦を見送り、セーヌ川の向こうのオーディション会場へ目をやった。

そのオーディションをきっかけに環はモデルの道を進むことが出来た。いつの間にかジャンとマリー夫婦のところへ居候することになり、家族のような関係を築く。
ジャンは調香学校やら、公私ともに行く先々に環を連れて行った。環がジャンの恋人だと噂されるのは至極当然のことである。
そのことについてマリーに申し訳ないと胸を痛め、一緒に出歩くのは止したいと申し出たが、マリーは逆に環の身が安全であると言うことを説いた。
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