爪先からムスク、指先からフィトンチッド
薫樹の両親の住まいは、芳香の実家など都会に見えるほど山奥にあった。駅から家に一番近いバス停まで1時間かかり、さらに日に2本しかない。またそのバス停から30分歩くそうだ。芳香がレンタカーを借りようかと提案したが、ナビでもわかりにくい場所で車が通れないほどの細い道もあり、迷いやすいようなので公共機関を使うことにした。
おかげで結婚前の挨拶だと言うのに山歩きのような格好になっている。
薫樹は芳香を実家に連れて行くのは大変だから町まで両親に出てきてもらおうかと思ったが、父がタイミング悪くぎっくり腰になってしまった。
それが治るのを待つとまた薫樹の仕事の都合もあり、機会を逃すので芳香を伴い山奥の実家へ連れて行くことになった。
しっかりした足取りで二人は山道を歩く。
「薫樹さんが山育ちだなんて全然イメージがわきませんでした」
「今の実家はこの奥だが、住まいは何度か変わっているんだ」
「へえー」
薫樹の父親は染織家で母親は染色家である。二人は織と染めに都合の良い場所を求めてあちこち転々とし居住を変えてきた。
兵部家の男は代々、5感のどれかが程度の差はあれ飛びぬけるため専門職に就きやすい。父親は触覚に優れており、手触りの良さを織物に求めこだわり続けている。
「はあー。薫樹さんは嗅覚がずば抜けていますもんねぇ」
「兄は聴覚に優れていてね。調律師をやっている」
「はあー。すごいエキスパート一家ですねえ」
「どうかな。一代限りで後が続かないしね。父親のこだわりのおかげで苦労も多かったからね」
「苦労ですかあ……」
凡人には理解しかねると芳香が首をかしげていると、ことんかたんと小気味の良い規則正しい音が聞こえる。
「機織りの音だ」
ガサガサと草をかき分けると、開けた土地に出、かやぶき屋根の古民家が現れる。
「うわあ。こんなお家、雑誌でしか見たことないやあ」
下から上まで見上げていると、薫樹がガタガタと引き戸を引き、土間の玄関から声を掛ける。
「帰ったよ」
しばらく待つとするすると和服を着た女性が「あら?」と声をあげた。
「ただいま、母さん」
「おかえり……」
一つにまとめて結い上げた髪の毛を触りながら薫樹の母、瑞恵は芳香に目を止めた。
「まあっ! 今日だったのかしら?」
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