秘め事は社長室で
「あと五分待て。俺も上がる」
「え? いやそんな、無理しなくても……」
「いいな?」
じろりと睨まれては頷くしかない。
ブンブン首を縦に振った私に満足したのか、淀みなくキーボードを叩く音が部屋に響き始める。私は軽く頭を下げて、邪魔しないようにそっと社長室を後にした。
さて。
本当は昼間のことがあって勝手に一人で気まずいから、送られるのは遠慮したかったのだけど……まあ、駅までの数分だし。ここはありがたくお言葉に甘えるとして。
社長を待つついでに、と寄った化粧室で、買ったばかりのリップをポーチから取り出す。蓋を外して、くるくると秋の限定色が顔を出したところで、指先が滑った。
「あっ」
カツン、プラスチックが洗面器に当たって跳ねる音がして、陶器の上を鮮やかな紅が走っていく。
「ああ~~~……」
情けない落胆の声が洩れてしまった。拾ったリップは真ん中に亀裂が入り欠けてしまって、とても使えそうにない。
「ショック……」
欠けた部分を整えれば少しは使えるかな……。
しゅん、と眉を下げながらひとまずは蓋を付けなおして、それからとっくに五分経っていることに気が付いて慌てて化粧室を飛び出した。
家まで送ろうかと言う社長の申し出を丁寧に固辞して、最寄駅からの帰路を若干元気のない足取りで進む。
あのリップ、高かったんだけどなあ。まだ一回しか使ってなかったし。
それに秋季限定のデザインと色だったから、また買おうとしてももう売っているかどうか。はあ、とひと際大きなため息をついたところで自宅に到着し、鞄からキーケースを取り出す。
かちり。シリンダーが回ったところで、それは姿を現した。
「──桃」
ぞわり。
背筋を這うような声に、全身を鳥肌が襲う。