秘め事は社長室で
意識が自分の頭上に向く。押し倒された時に放り出された鞄の方へと。
着信を知らせるメロディだ。明るい音楽は暫く鳴り響いて、虚しく消える。かと思うと、すぐにまた鳴り出した。
珍しい。何か緊急だろうか。でもそれが、救いの手だった。
コール音は鳴り響いては消えを幾度も幾度も繰り返し、いい加減鬱陶しそうに私から目を逸らした健のその瞬間が、好機だった。──今だ!
「一体誰から――ッ!?」
ガッと掴んだ小型のスプレー缶をポケットから取り出し、健の両目目掛けて噴射する。自分には決して降りかからないように、目を細めながら。
「ぐぁ……っ」
健が痛みに呻く。想定通り拘束が緩んで、ナイフが取り落された。その隙を逃さず健の下から抜け出し、鞄を引っ掴んでリビングまで走る。刃が掠めたのだろう。顎の下や首のあたりに鈍い痛みが走ったけど、すぐに気にならなくなった。
リビングのドアは鍵を掛けられない。とにかく部屋の奥、窓際の隅まで逃げ込んで、物陰に身を隠しながらへたり込む。
心臓がはち切れそうだ。浅くしか呼吸が出来なくて苦しい。とにかく、警察を。
震える指先でスマートフォンを探り当て、電源ボタンを押して驚く。夥しい数の着信は、全て社長からの履歴だった。
一瞬、そのまま社長に折り返してしまいたくなる。あの凛と張りのある、それでいてほんの少し冷たい声が聞きたくて。そうすればなんだか、安心できるような気がして。
何を馬鹿なことを。ふざけた思考を端っこに追いやって、電話アプリを開こうとした時、廊下の奥から獣の咆哮が聞こえてきた。
「桃ォ……!!」
「ひ……っ」
その悍ましさに手からスマートフォンが滑り落ちていく。