結婚契約書に延長の条文はありませんが~御曹司は契約妻を引き留めたい~
悩んでいる内にすっかり篝に外堀を埋められた感は否めない。
頼みにしていた可奈子にも自分で考えろと言われ、正直どうしていいかわからない。
篝が運転する車はやがてKagariホールディングスのオフィスビルの前に停まった。

「車はここに預けて、歩いて行こう。近くにおいしい居酒屋がある」

この前も懐石料理やだったが、今度も居酒屋。彼は和食が好きなのだろうか。
そう尋ねると、ちょっと考えて「そうかもな」と彼も初めて気づいたように言う。

「ここだ」

そう言って彼が連れてきたのは小さな居酒屋で、大会社の御曹司が通うような感じでは無かった。

「店は小さいが、板前の腕はいいんだ」

香津美の考えを読んだかのように篝が答える。

「いらっしゃい、あ、篝さん」
「こんばんは、大将。遅くにごめん」
「いいえ、奥の座敷にどうぞ。料理はお任せで良いですか」
「ああ、あ、ごめん。嫌いな物ある?」
「いえ、特には」
「だそうだ」
「はいよ」
「こちらへどうぞ」

無地の着物に前掛けを付けた女性が香津美達を案内してくれた。大将の奥さんだと篝が教えてくれた。
ここは夫婦二人でやっているそうだ。
案内された座敷は、香津美の暮らすアパートの一部屋よりも狭くて、四人も入ればいっぱいな感じだった。
脱いだジャケットを女将に預け、出されたお冷やをぐいっと篝は飲んだ。

「ああ、生き返る」
「そんなに喉が渇いていたんですか?」

まだまだ暑い日が続く。陽が落ちて暫く経ってもまだまだ蒸し暑い。

「この一週間、生きた心地がしなかった。いつ君から断りの連絡が来るかとね」
「大袈裟ね」

自分と同じだけ彼も気にしていたと聞いて、少し心が軽くなった。

求婚(プロポーズ)なんて人生で初めてだから。しかも相手は君だ。普段俺が武器にしているものは通用しない」
「武器?」
「一応、イケメンの部類に入ると思う。それから高身長でスタイル抜群、そしてKagariホールディングスの御曹司でお金もある。大抵の女性は前の二つで俺のことを気に入るし、後のひとつは最高のオプションだ」
「はあ・・」
「その反応・・一応笑うところだろ?」
「え、そうなんですか? 普通に自慢かと思いました」
「冗談も通じないとは・・俺ってそんなに君から見て魅力ない?」

よく見れば耳が赤くなっている。彼にも羞恥心があるのかとクスリと笑いが漏れた。

「え、今の笑った? 何が面白かったんだ?」
「え、あ、いえ・・あなたも人並みに羞恥心があるんだなと」
「は? 何それ、こんなの君にしか見せたことないよ。ああ、せっかく格好つけてもまるで通じない。かっこ悪いところ見せてようやく君の心を掴むだなんて」
「そんな、掴むだなんて、そんなこと言っていません」
「でも、ちょっとはぐっと来た?」

色っぽい目で見つめられ、形の良い唇が孤を描く。その唇に触れたときのことを思い出し、香津美は頬を赤く染めた。
格好つけたと思ったら、道化のようにチャラけて見せる。それもこれも香津美の気を引きたいからだと言われて、香津美の心は大きく傾いた。
いきなり君でいいからと求婚されて、この一週間はずっと落ち着かなかった。
『自分の人生の舵は自分で取って進むしかない』
可奈子の言葉が脳裏に浮かぶ。

「失礼します」

最初の一品が運ばれてきた。
お通しからお造り、煮物、腕物、焼き物、天ぷら、そして最後はあっさりとしたわかめの炊き込みご飯。最後にきなこのアイスが出された。

食後は豆から曳いた香り高いコーヒー。一品一品最後まで料理人の拘りが感じられる料理だった。

「本当に美味しい物をご存知なんですね」

この前の店もそうだが、この店も満足のいく料理とサービスだった。

「そう言ってくれると連れてきた甲斐がある。君も美味しそうに食べてくれて見ていると気持ちが良い」
「ありがとうございます。篝さんも、気持ちいいくらいたくさん食べますね」
「これは、胃袋を掴んだと言っていいんだろうか。普通は手料理を振る舞って掴むものだけど」
「篝さんは、そういうこと、なさらないんですか?」
「料理? まあ、簡単なものなら、一応うちには料理人がいるが、時間外は自分で作るしか無いから」
「意外です」
「おいおい、意外って・・それくらい俺もする」
「ごめんなさい。あなたを侮辱するつもりは」
「別にいいよ。君にならそれくらいのこと言われても怒りはしない。ちょっと傷ついたけど」

大袈裟に傷ついた振りをする篝を見て、また香津美は笑みを浮かべた。

こんな風に日常を過ごせるなら、彼との契約を考えてもいいのではないか。
そんな気持ちになっていた。


< 16 / 44 >

この作品をシェア

pagetop