囚われのシンデレラ【完結】
「今日、母の手術です。ここまでこぎつけられたこと、本当に感謝しています」
朝、出勤していく西園寺さんの背中に慌てて声を掛けた。
基本、西園寺さんと会話をすることはない。顔を合せたときに挨拶をする程度だ。おそらく、西園寺さんがなるべく私と顔を合わさないようにしている。
ぴんと張ったスーツの背中が、こちらを向いた。
「大石先生に任せておけば大丈夫だ。必ず、上手く行く」
「はい。ありがとうございます」
想像していたより柔らかい声だった。私に向けられていた視線はすぐに元に戻り、玄関から出て行った。
西園寺さんの帰りはいつも遅い。年齢を考えても、要職についているのかもしれない。どちらにしても、仕事が大変なのだろう。私には知る由もないけれど。
仕事の休みを取って、病院へと向かった。これから手術室へと向かう母の手を握る。その指の細さに胸が痛んだ。
「絶対大丈夫だから。安心して、手術を受けて来て」
精一杯笑顔を作る。
「そうね。大石先生だもの。何の心配もしていないよ。佳孝さんにもありがとうって言っておいてね」
「うん。ちゃんと言っておく」
手術室へと入って行ったお母さんに笑顔で手を振った。
事前の説明で、手術には5時間ほどかかると言われていた。それでも、どうしても手術室の前から離れられなくて。手術室近くのベンチで一人、ただ祈るように座っていた。
お腹もすかないし、呼吸をするのも苦しい。今、まさにそこでメスを入れているのかと思うと、大丈夫だと分かっていても怖くてたまらないのだ。
自分がここからいなくなった間に、もし何かがあったら――。
そう思ったら、どこにも行く気にはなれなかった。
午前11時から始まった手術。
どうか、この扉が開く時には、すべてが上手く行っていますように。
ぎゅっと手を握り合わせる。1分が1時間にも思える。それは果てしない時間だった。
握りしめた手に額を載せる。どれだけ時間が経ったのだろう。緊張し続けている身体は、もうどこに力を入れればいいのか分からない。
心臓の鼓動が、苦しい――。
「――手術始まってから、ずっとここに座ってるのか?」
近付いて来た声に顔を上げる。
「ほら、これ」
有名なコーヒーチェーンのカップを私に手渡して来たのは、西園寺さんだった。
「どうせ、何も口にしていないんだろ?」
「どうして……お仕事は?」
ここに来るなんて聞いていなかった。
「大事な仕事は全部片づけて来たから、大丈夫」
そう言って、西園寺さんが私の隣に腰掛けた。
「で、でも――」
西園寺さんが来てくれるとは、想像もしていなくて。ただ目をぱちくりとする。
「お母さんの手術が終わって出て来た時、君が倒れていたら元も子もないだろ。ちゃんと、食べろ」
今度は、同じコーヒーチェーンの紙袋を渡された。中身をのぞいてみると、サンドウィッチが入っていた。
「ありがとうございます」
カップを口にすると、温かなカフェオレだった。緊張でガチガチだった身体に、じんと染み渡る。
「美味しいです」
本当に美味しかった。
それから、西園寺さんはただ隣に座ってくれていた。
何か会話をしたわけじゃない。それでも、それまで一人で待っていた時間とは全然違った。