囚われのシンデレラ【完結】
ホテルの部屋を後にして、木藤さんと私の二人になった。木藤さんに誘われて、ホテルのラウンジで向き合う。
「あずささん。やっぱり、迷うの?」
手にしていたコーヒーカップをテーブルに置くと、木藤さんが私に尋ねた。
「その段階にすらないです。あまりに考えもしていなかったことなので。私には、大きな手術を終えたばかりの母が一人います。それに、結婚している身ですから。学生の頃とは全然状況が違う」
そうだ。現実として、自分の置かれた立場では無理なこと――。
「お母様は、設備が整っているマンションに住まわれているんだよね? それに、留学と言っても長期休暇は多い。一年の半分近くは日本にいられるんだよ。モスクワは東京と直行便で結ばれているから、帰って来ようと思ったらいつでも帰って来られる。もし自分のせいで娘が大きなチャンスを逃したと知ったら、お母様はどう思うかな」
身を乗り出すようにして、木藤さんが私をじっと見つめた。
「だからこそ、ソコロフは、自分の心の声を聞きなさいと言ったのではない?」
私の心の声――。
それはもちろん、音楽を本場で学びたいと思っていた。子どもの頃からの夢だった。
でも――。
「私は、妻という立場で――」
「西園寺さんは、そんなことを理由に反対したりしないと思う。だって、あなたの講師にってソコロフに頼み込んだのは西園寺さん本人なんだから」
え……? 頼み込んだって――。
『バイオリンの講師を適当に探した』
そう言っていた。たまたま、センチュリーホテルの利用者だったからとも。
「多分、世界中の誰よりもあなたの才能を信じているのは西園寺さんなんじゃないかな。だって、ソコロフに言っていたよ?『あずさの音が世界で一番だと思っている』って」
西園寺さんが――。
「もちろん家族と相談するのは大事だよ。でも、最後はあなたが決めないとね。誰のせいにもせず、自分の意思で決める。そうしないと、必ず後悔すると思うから」
私は、どうしたいのか。
突然目の前に現れた、”現実”としての夢。
また、あの舞台に立ってみたい。私の音が、どこまで行けるのか挑戦してみたい。
そう思っても、すぐにそう出来ない理由が飛んで来る。
留学なんてすれば、母を置いて日本を発つことになる。そんなこと、心配で出来ない。
そして、西園寺さんの顔が浮かぶ。
西園寺さんの傍にいられなくなる――。
傍にいない妻が、何の役に立つだろう。西園寺さんの縁談を遠ざける役目なんて果たせない。そうなったら、私と結婚している意味なんてなくなる。
西園寺さんは、どう考えているのだろう。
私は、一体どうしたらいい――?
自分の本当の心の声にいろんな声が被さって、答えに届かない。ただ一人、果てしなく広い砂漠に投げ出されたみたいな気持ちになる。
バイオリンケースのストラップをぎゅっと握りしめて歩き出す。そして、ホテルのエントランスまで来たところで立ち止まった。
ここは、私と西園寺さんが出会った場所だ。ここで西園寺さんとぶつかって。落としたバイオリンケースの鍵を拾ってくれたのが、西園寺さんだった。あの日から、私の恋は始まった。
ちょうど同じ3月だった。
どれだけ悩んでもどれだけ難しくても、答えを見つけ出さなくてはいけない。私は今、どんな感情からも逃げてはいけない時に来ているのかもしれない。
私に、答えを見つけ出せるだろうか――?
ただ一つ、私の中で揺るぎないことは西園寺さんが好きだということ。
あの日この場所で、偶然めぐり逢い出会った意味を思う。