囚われのシンデレラ【完結】
"夫が、先生に私に教えてくださるように頼み込んだのだと聞きました。夫は、どういうつもりで先生に頼んだのでしょうか"
ソコロフ先生が、少し考えるような仕草をした後、私を真っ直ぐに見た。
"君にははっきりとは伝えなかったな。ヨシタカがそれを望んだから"
どこか緊張しながら私は先生を見た。
"ヨシタカは、最初から、チャイコフスキーコンクールを目指せるだけの力を付けてくれと私に言って来た"
最初から……?
"君を世界に羽ばたかせたかったんだよ。アズサは泣く泣く夢を諦めなければならなかった。そんな君を、何が何でも助けたかった。ヨシタカは、君の一番のファンなんだろうな"
木藤さんもそれに頷いて言った。
「それをあずささんに言わなかったのは、西園寺さんなりの気遣いなんだろうね。遠慮されたり、変に恩をきせたりしたくなかった。あなた自身で演奏する喜びを思い出して、もう一度夢を見たいって思ってもらいたかったんじゃないかな」
最初から――結婚した時から――。
それは、西園寺さんがまだ、私に裏切られたと思っていた頃だ。それなのに、その時既に、西園寺さんは私のために動いていた。
『次期社長の妻になろうという人間が、特技のひとつもないのは恥ずかしい。君にバイオリン以外に何かあると言うのか。何もないだろ。人前で弾ける程度には腕を戻しておけ』
あんな嘘までついて。
偶然再会して、私が父を亡くしたことを知って、お母さんが難しい病気であることを知って。私が、バイオリンの道が絶たれたことを知って――。
やはり、西園寺さんは私のために契約結婚なんて提案したのだ。
レッスンが終わった夕方、自分の部屋のベッドに座り込んだ。
私が考えている以上に、西園寺さんは最初から私のことを想ってくれていた。
不意に、西園寺さんが私に渡した通帳のことを思い出す。リビングのキャビネットにしまった、投げつけた通帳を確認した。
振り込まれた日付に目が止まる。数日に分けて振り込まれているが、それは入籍してすぐの頃だった。
でも、このお金は離婚の慰謝料だって――。
三千万円という金額に目を奪われて、日付にまで気付けなかった。西園寺さんは、私と結婚した時にはもう、離婚するつもりでいたのだということを示している。
『俺のような立場になれば、この先も縁談はもたらされる。それがとにかくわずらわしい。結婚さえしてしまえば、もうそんな話さえなくなる。それが、俺のこの結婚に対する利益だ』
その言葉を私はそのまま信じていた。やっぱりそれも嘘だった。
自分の部屋に駆け戻る。
西園寺さんが、パーティー用だと言って買ってくれたドレス。結局それを着て、木藤さんのリサイタルで演奏した。今、改めて見てみれば、買ってくれた3着のドレスはどれも、演奏会で着るのにふさわしいデザインのものばかり。
高価な婚約指輪も結婚指輪も、お母さんのために準備してくれたマンションも。ソコロフ先生と木藤さんのレッスンも。留学するのに十分な慰謝料も。西園寺さんの嘘も、何もかも。
自分を裏切ったと思っている女のため、
いずれ手放すつもりの女のために。
何の見返りもない。全部、私のためだ。
私が、留学できるように、夢だったチャイコフスキーコンクールの舞台に立てるように。ただその道筋を作って環境を整えたあとは、私を自由にしようとしていたのだ。
想いが通じ合う前の西園寺さんの冷たい言葉と態度がよみがえる。冷たい中に、隠しきれない優しさを感じていた。その時の西園寺さんの心に思いを馳せれば、胸が締め付けられてたまらない。
西園寺さんは、私が夢見ていたものを大切に思ってくれていたのだ。
出会った時から、ずっと――。
西園寺さんが私にくれた想いに囲まれて、部屋の真ん中でうずくまる。