囚われのシンデレラ【完結】
食事を終え、洗面室で備え付けの浴衣を着て、鏡に映る自分の顔を見た。
温泉の熱いほどの湯とシャンパンで火照った頬を、手のひらで覆う。
迷いはない。
その頬を、パンパンと二度叩く。
洗面室から出ると、先に出ていた西園寺さんの姿を探した。
あ、いた――。
グランドピアノの前に座り、片手で音をぽろぽろとこぼしていた。
「……ピアノ、弾いてください」
その背中のすぐ後ろに立つと、西園寺さんが振り返った。西園寺さんの浴衣姿を見るのは初めてだ。
「もう出たのか。少し、練習しようかと思っていたところだ」
私がお願いすれば、こうして応えようとしてくれる。ただ一つの願いを除いては――。
「何でもいいです。西園寺さんのピアノを聴きたいから」
「ほんとに、簡単なものしか弾けないからな」
無造作にかき上げられたまだ乾ききっていない短い髪と、浴衣の合わせ目からのぞく鎖骨の窪み。その色気を纏う姿に、また胸がドクンと鳴る。
私も大学時代まで、副科でピアノも練習していた。でも、あまり得意ではなかった。
「じゃあ、ここ。ここに座って」
そう言って、西園寺さんが自分の座る長椅子の右隣を、ぽんぽんと叩く。その端にそっと腰掛けた。より近付いた身体から、私と同じ香りがする。
西園寺さんの長くて骨張った指が鍵盤に置かれた。88個ある鍵盤の真ん中より左側、低い音が静かに響く。
「この曲、ベートーヴェンの月光ソナタ?」
「そう。第一楽章だ。ブランクあると、テンポの早い曲は指が回らなくて無理だから。スローな曲にしたんだ」
一つ一つの音が深く染み込んで行くような三つの連なる音。短調の哀しげで静かなメロディーが、二人きりの夜に漂う。
「……すごく素敵です」
ゆっくりだからこそ、どう弾くかがそのまま音色に表される。西園寺さんの弾くピアノの音色はとても深い。
「そう? こっちは、弾くのに必死だよ」
そう言いながらも、指を滑らかに繰り出している。
「あずさも、メロディー弾いて? 一緒に弾こう」
不意にこちらに向けられた顔に、慌てる。
「私も?」
「片手なら、できるだろ?」
知っている曲だから、片手ならなんとなくは弾けるかもしれない。
「……やってみます」
私の目の前にある高音部分の鍵盤を押した。高い音が加わって、曲の雰囲気が一気に変わった。