囚われのシンデレラ【完結】

「ありがとうございます……」

そう言えば、この人は――。

何と声を掛けるべきかと躊躇っていると、その人はにっこりと笑った。

「私のことなら、気になさらないで。モスクワで2次予選の舞台に立てただけで上出来なんです。それより私、本当にあなたの演奏に感動して。それをどうしても伝えたくて……。ファイナル、頑張ってください! 会場に聴きに行きます」

私の立場で、何かを伝えることがいいのかどうか分からない。でも、私も伝えたい。それが本当に感じたことだからだ。

「ありがとうございます。私も、あなたの演奏本当に好きです。優しく語りかけるみたいな演奏が温かくて。舞台袖で、自分のことを忘れて聴き入っていました」
「……ありがとうございます。自分の演奏をそんな風に言ってもらえるのって、やっぱり嬉しいものですね」

その気持ちは痛いほどにわかる。

「誰かの心に少しでも私の音が残ったのなら、やっぱりやっていて良かったなって思える。この先も、私も頑張ります」

その人の笑顔はとても素敵なものだった。

「私みたいに、あなたの音に癒される人がたくさんいると思います。またどこかでお会い出来るのを楽しみにしてます」

握手をして、「お互いに頑張りましょう」と声を掛け合った。

「……コンクールって不思議だよね。ライバルを蹴落とさなければ自分の枠を確保出来ないんだけど。そんなライバルにさえ感動しちゃうことがある。清々しい負けっていうのかな。今の彼女は、まさにそんな顔だった。相手の素晴らしさを認められる。それこそ本物の演奏家だよね。私もあの子の演奏、素敵だと思った」

女性の背を見送りながら、木藤さんがしみじみと言う。

「人間が演奏している以上、自分自身が良くも悪くも音に出てしまうもの。ホント、怖いよね」

そこに、私の先生と話し込んでいたはずのソコロフ先生が頭を抱えて私たちの間に入って来た。

「それにしても、どうしてこうも不運なんだ。君のファイナルの日に予定があるなんて」
「まだそんなことを言って。お仕事ですから仕方ありません。先生の代わりに私がしっかり見届けますよ」

ソコロフ先生は、ファイナルは来られないからと2次予選にかけつけてくれたのだ。それだけで十分ありがたい。

「そうだぞ。おまえは自分の仕事をしろ。さあ、アズサ。時間はない。4日間でコンチェルト2曲を仕上げるんだからな。今からレッスンだ」
「は、はいっ」

やっぱり、まだ休む間はない。すたすたと歩き出した先生の後に続く。

「ソコロフ先生。本当に、ありがとうございました。改めてまたご報告とお礼をさせてください」

振り返りつつソコロフ先生に頭を下げる。

「いいから、早く行きなさい。ライブ映像で私も見るからな。あずさのコンチェルト、楽しみにしてるよ。佳孝も絶対に見るはずだ。どこにいても必ず」
「――はい」

もう一度深く頭を下げた。


 ファイナルまでの4日間。記憶が飛ぶくらいの日々を過ごした。

 悔いの残らない演奏をしたい。まだたった30年だけれど、これまでの人生のすべてを込めたい。

 腕も指も肩も精神的な疲労も、限界に近付いているのは分かる。でも、不思議と気力だけはみなぎって。

これまでで一番の演奏をしてみせる――。

根拠のない確信があった。きっと、それは私の強い願望が見せた確信なのかもしれないけれど。

先生とのレッスン、個人練習。そして、オーケストラとのリハーサル。目まぐるしい時間が終わりを告げ、本番当日を迎えた。

< 355 / 365 >

この作品をシェア

pagetop