囚われのシンデレラ【完結】


 一睡も出来なかった身体は、全身が鉛にでもなったかのように重い。泥の中を泳ぐような感覚で、起き上がった。うつろな気持ちで鏡の前に立つと、大きく腫れた瞼が目に覆いかぶさっている。

酷い顔――。

このまま部屋に閉じこもっていたい。でも、コンサートまでもう日はない。そんなこと言っていられる時じゃない。

痛むこめかみを押さえ、出掛ける準備をした。


 第一楽章、ソロ部分の出だし、オーケストラパートが消えて、バイオリンの音だけが響き渡る。私の最初の音をお客さんに聴かせる部分。そこで、すべてが決まると言っても過言じゃない。

音色、音程、音量、響き――すべてに神経を尖らせてコントロールして。緊張感と美しさを最大限に――。

「――全然、だめ……っ!」

乱暴に肩からバイオリンを下ろした。大学の練習室でしゃがみ込み、額に手を当てる。

しっかりしろ――。

50人以上のオーケストラをバックに演奏すること。今回のホールはサロンとは違う。1000人ほどの人が収容できる大ホールだ。そこでソリストとして演奏することの責任がある。

バイオリンのことだけを考えないと――。


 この日、初めてのオーケストラの合わせがあった。大学のホールにAオケのメンバーたちが集まって来る。ちらちらと私の顔を見る人たちから顔を背け、自分の準備をする。
 舞台の上ではAオケの人たちが、それぞれに準備をしていた。指揮者である指揮科の教授の元に出向き挨拶をした。

「進藤です。オケとの演奏は初めてなのですが、精一杯頑張ります。よろしくお願いします」

椅子に座りスコアを捲っていた教授が顔を上げた。

「ああ、君ね。Aオケじゃないんだってね。学生たちがぼやいていたのを小耳にはさんだよ」
「は、はい」
「AとかBとか、関係ないんだけどね」

そう言って教授がふっと笑った。

「君たちは音楽界の重鎮でもなんでもない、無名の音楽家だ。その時その時の、瞬間の結果がすべて。君は、その瞬間を評価してもらえたんだろう。その評価を今後に生かすも殺すも君次第。どんなバイオリンを聴かせてくれるのか、楽しみにしているよ」
「は、はい」

ここに立つことを、すべての人に納得してもらわないと――。

心の中の雑念を追い払おうと必死だった。

 嫌な汗が流れ続ける。慌てて、バッグの中からハンカチを探した。その時に、スマホが転がり落ちて来る。
 それを手に取るのが躊躇われる。前の晩から、怖くてディスプレイを見ることが出来ないでいた。どうしてそれをこの時見てしまったのだろう。手に取りスマホを表にする。ディスプレイには何の表示もされていなかった。
 どこからもメッセージも着信もない。西園寺さんは、まだ斎藤さんから何も聞いていないということか。

それとも、話を聞いて西園寺さんも受け入れたということ――。

その方がいい。そのために別れを選んだのだから、その方がいいに決まっている。

それでいい。それでいいんだ――。

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