大好きだよ、堕天使くん
車の中はとてもタバコ臭くて、けれどゴミひとつ落ちていない綺麗な座席周辺だった。
音楽やラジオなんてものの音はなく、後部座席に座る私の鼓動と、運転手である男が時折漏らすため息と舌打ちが音楽を作っていた。
「着いた」
目的地に着くまで、私たちは一言も話すことなく、そして車から降りても会話はなかった。
「新聞社?」
「の、上」
『中川新聞』と書かれた看板の上に、何やら小さく別の看板があるけれど、私の視力では到底みることができない。
「堕天使くんがここにいるんですか?」
扉の奥は至って普通のオフィス。
茶色い革のソファーとガラスのテーブルが真ん中にあって、特に続く扉がひとつ。
そして、棚には高さがバラバラな本とバインダーがパンパンに詰まっていた。
「そう」
堕天使くん。
堕天使くん。
私の頭の中はただそれだけ。
「テシー」
堕天使くん。
「テシー?」
彼が堕天使くんを呼ぶと、奥から声が聞こえてきた。
「こっち」
声がした方向の扉を素早く開けた彼は、私を先に中に入れようと手で示した。
私の姿が堕天使くんに認知されたのだろう。
彼はすぐさま立ち上がって、にこりと微笑んだ。
堕天使くんは部屋の中でも仮面をつけているらしい。
「違う、客じゃない」
そう言われると、堕天使くんはすんと無表情になって、小さく舌打ちした。
幻滅はしなかった。
こういう人だろうと予想していたから。
「じゃあ誰?」
堕天使くんがそういうと、彼は再び手を振った。
そういえば、この人の名前は何?
きっと、名乗れと言われたのだろうけれど、生憎私の頭はお花畑なのだ。
「好きです」
ギョッとする隣の男。
相変わらず無表情だけど、何かを察した様子の堕天使くん。
「日之裏にいた女の子だ」
「覚えてくれてたんですか!?」
「忘れてたけど思い出した」
そんなこと言ってくるヤバいやつは中々いないよ、と言って、堕天使くんは再びソファーに腰を下ろした。
「嬉しい…」
つい漏れてしまった本音は、一緒に来た男の人の乾いた笑いを誘う。
「それで、エミ?」
「ああ、もちろんちゃと理由はあるぜ?こいつの歌、聞いてみーよ」
エミ…と言うのか、この男は。
見上げると、ニヤリと笑われて鳥肌が立った。
「歌?」
低くて鋭い言葉に、再び堕天使くんに視線を戻す。
心底嫌そうな顔だった。
「そうそう。ほれ、女子高生。さっきみたいに歌え」
「へ?」
2秒ほど静止してから、頼まれたことの概要を理解する。
「む、無理ですって…!」
堕天使くんの前で歌う?
無理無理無理無理。
もっと上手くなってから聞かせたい。
あ、でも。
「ど、動画…」
動画アップロードサービスの一つである、ワラワラチャンネルに、今まで投稿してきた動画なら自信がある。
1番再生回数があるのは『イラブ』という曲。
私の大好きなボーカロイドが歌っている曲だ。