90日のシンデレラ
 高級車のシートは、それはそれは座り心地がいい。ピタリと体にフィットして、走行中の振動から体を守るだけでなく快適なドライブを保証する。真紘はそのシートで深く眠りに落ちてしまった、何よりの証拠である。
 そう、上等なシートであればこんなことにも気がついてしまう。体にフィットし過ぎて、むやみやたらに動けないということに。さらにシートベルトは装着したまま。まだ外していない。
 ひいてはそれは、シートに拘束されているというか閉じ込められているというか、要は簡単には逃げられないことと同じで……
 現状の身体状態を認識し、北峰の言葉の裏を探れば、真紘はさぁ~っと青ざめた。

 (待って!)
 (そのお返しって、やっぱり……そっちのことよね)
 (マジ! マジで、待って!)

 さらに真紘の心臓は高鳴りする。この緊張、エレベーター内で「部屋を貸せ」「貸さない」の問答のときのボルテージを超えている。
 心臓の高鳴りは衰えず、頬は焦る心臓から繰り出された血液で真っ赤に染まる。
 車内の暗闇は依然変わらない。おかげでゆでだこ状態の真紘のことは、まだに北峰に伝わっていない。暗さがある種の救いとなっていた。

 真紘の動揺や困惑や焦りなど、そんなの北峰は一向に気にしない。運転席から軽く体を浮かし、上体を真紘に近づけていく。
 夜の車中では、北峰の顔はよくみえない。一体どんな表情を浮かべて、真紘に迫っていっているのか?

 ふわりと不思議な香りが真紘の鼻をくすぐる。男性用のパヒュームではない。煙草の匂いでもない。もちろんお酒の香りでもなく、それが蒸し暑い六月の一日の終わりの汗の匂いだと気づいたときには、もう目と鼻の先に北峰の顔があった。

 (!)
 (ああ、ダメー)
 (キスされる!)

 とっさに真紘は、唯一自由になる左手で自分の口元を隠した。


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