90日のシンデレラ
 気が緩まると、真紘は『瑠樹』でなく『北峰』といってしまう。
 褒められても調子に乗ることなく、グラスを傾けたままやんわりと瑠樹が注意する。
 慌てて真紘は、失態のお詫びとばかりに褒め言葉をつけ足し訂正した。

 自慢のカレシ――もちろん、それをこの部屋の外で口外することはできない。こんなこと、総務部にバレてしまえば大変なことになる。本社だけでなく、孫会社の評判にもかかわるだろう。
 路上で「瑠樹と呼べ」と要求されて、真紘はなかなかできなかった。だが、この部屋の中では人の目を気にする必要はない。
 今日一日は、ずっと瑠樹は真紘のご機嫌取りを行ってきた。それは真紘の希望でも何でもないのだが、そのお返しに「自慢のカレシ」と口にすることが、今の真紘にできる精一杯のことである。

 「自慢のカレシか。では、その期待に添えないといけないな」

 はじめて真紘から『カレシ』という言葉をきいて、瑠樹のほうも頬を緩ませた。




 食事開始こそ会話があったが、すぐにそれは消えて、ふたりは夕食に夢中になった。あのカフェのオープンサンドイッチは、やはり間食程度の量しかなかったのが、ここで証明されている。
 三人前のボンゴレは瑠樹がほぼ真紘の倍の量を食べて、フライパンはきれいさっぱり空になった。

 しばらく歓談してから、片付けに入る。
 少量の食器であれば食洗器を使うまでもない。仲良くふたり並んでシンクの前に立てば、流れ作業で食器を洗っていく。洗った食器を食洗器に放り込んで乾燥のスイッチを押した。

 「ふたりでやると早いですね」
 「鍋もフライパンだけでだったからな」
 「コーヒーでも入れましょうか?」

 時刻は、なんとまだ六時前である。
 昼食が少なかったのと、三時のおやつをスキップしたので、夕食がおそろしく早い時刻となっていた。

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