さよならしたはずが、極上御曹司はウブな幼馴染を赤ちゃんごと切愛で満たす
「いや、いい。またすぐに会うことになるだろう」
 微かに空いた窓から、金木犀の香りがした。
 懐かしい匂いに目を細め、遠い過去へと思いを馳せる。
『りっちゃん』
 幼かった彼女の声が、愛しかった記憶が、蘇ってくる。

 橙色の小さな花びらがひらひらと舞い、彼女の艶やかな髪に止まった。
 青い空から光が降り注ぎ、甘やかな香りが漂う中、その人はこう言った。
『――あたしが、これからもずっと、りっちゃんを守ってあげるから』
 いじめられて泥だらけになった姿のまま泣いていた『僕』は、ただ哀しくて情けなくてこのまま消えてしまいたいと願っていた。
『ね、やくそくよ。だから、もう泣かないで』
 彼女がハンカチでさしく頬を拭ってくれた。僕は涙に濡れた目のまま、おそるおそる彼女を見上げた。
 そこには侮蔑や憐れみの眼差しなど存在しなかった。そればかりか、慈愛や希望の色に満ち溢れていた。
 僕は息を呑んで彼女を見た。意味もなく様々な神様を崇拝する人の気持ちが、このとき少しだけわかった。
 神様なんて元々信じていなかったけれど。でも、この世にひとりだけはいるのだと思う。それは目の前の彼女だ。
 彼女の笑顔はまるで物語に登場する女神のように美しく清らかで……安直な表現かもしれないけれど、ただただ――とても綺麗だった。
 差し出された手に縋りつくことしかできなかった僕は、絡め合った指先に強く願いを込めた。
 やさしい君がこの先どうか傷つくようなことがありませんように。君がずっと健やかでいられますように。
 そして、僕は同時に決意表明をする。
 もっと強くなろう。君を守れる大人になろう。
 もしもこの先、君が僕を必要とするときがきたら、傘となり、盾となり、陽だまりとなれるように。
 僕を救ってくれたやさしい君が、これからもずっと笑顔でいられますように。

「君は……あの頃から、変わらないんだな」
 律樹は小さく呟く。
 けれど、『俺』はもう、あの頃の『僕』ではない。
 しかしだからこそ、今の自分にはできることがある。それをいつか彼女にも知ってほしい。

* * *

 あれからも光莉は会社と病院を往復し、時間を見つけて父を見舞った。その傍ら、光莉は律樹との政略結婚の話を、父に話すか否か悩んでいた。
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