さよならしたはずが、極上御曹司はウブな幼馴染を赤ちゃんごと切愛で満たす
「幼い頃、君にはたくさん助けてもらった。あの頃の俺なら……君に政略結婚なんて卑怯な真似を持ちかけるわけがないさ。これが、君に助けてもらった恩返しとは言わない。一種の恩着せがましい行為だと思ってくれても構わない。ただ真実としていえるのは、今の俺は常盤家当主の息子で、目的達成のためならどんな手段も選ばない人間の血が通っているということだけだ――だから、君も過去のことは忘れて、早々に割り切った方がいい」
 そう語る律樹には先ほど見えたと思った戸惑いも少しの動揺も滲んでいない。淡々と語る彼の言葉に、光莉は何も言えなくなってしまった。
(私は……何を望んでいたの)
 律樹が昔の思い出を今でも大事にしてくれていて、これから先もそれは変わらないでいることを勝手に期待していた。けれど、彼は義理を果たしただけ。そこに思慕はないのだと突き付けられた。
 少し散歩をしようと、律樹に料亭の中庭へと案内される。長身の彼の後を追い、歩いていると、ある香りに引き寄せられた。
 金木犀の香り。いつも過去に置き忘れてきた初恋を思い出させる、あの恋しい香りだ。
 誘われるように視線を動かすと、彼の薄茶色の髪や、彼のポケットチーフのところに橙色の花弁がついていた。
 ほとんど無意識に、吸い寄せられるように、光莉は彼の胸もとへ指を伸ばす。
 ふと、近距離で視線が絡み合う。色素の薄いガラス玉のような澄んだ瞳が、懐かしい過去を連れてくる。
 ああ、やっぱり彼だ。けれど、もうあの頃の彼はいない。何度も、何度も、心に刻む。
 光莉は泣きたくなるのをこらえながら、律樹に微笑みかけた。
「もっと別の形で、りっちゃんに会いたかった」
 そしたら、それこそ初恋が恋として実ることがあっただろうか。過去とリンクした金木犀の香りが、光莉にそんな幻想を抱かせる。しかし、幻想は幻想のままだ。わかっている。
「……っ」
 律樹が息を呑む。視界が揺らぐ。彼が口を開こうとするのを遮って、光莉は続けて言った。
「もう何も言わなくていいよ。でも、私からこれだけは言わせてほしいの。守ってくれようとしてくれてありがとう」
 事実として彼は救ってくれようとしている。彼の背景は知らない。知る必要もない。
 光莉が守りたいものは、最愛の父と大事な山谷食品という会社。それに関わる人たちのこと。
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