ピースな私と嘘つきなヒツジ

3.凪とNAGI

『こんばんは〜!』

画面越しに弾む声が響く。

『突然の枠だったけれど今日も配信を見てくれてありがとう。NAGIです!』

彼はコメント欄に書かれたリクエスト曲を確認しながら、軽やかに歌い始めた。リスナーからの感想のコメントが画面を流れる中、彼の声は一つ一つの文字に温かさを添えて響く。

そして、トークを盛り上げてひと息つくと明るい声で告げた。

『最後には新曲もあるので、楽しみにしててね!』

(うーん♥今日も絶好調に良い声!)

コンビニの前で凪に偶然出会ってから、もう一週間が過ぎていた。

この日、千夏は仕事を終えると、クリーニングから戻ってきた凪の服を泉に返そうと電話をかけた。しかし、泉は予定があるとあっさり断ってきた。

直接カフェに服を持って行って渡すこともできたけれど、凪は千夏と泉の関係をはっきりとは知っているとは教えてくれず、いつも匂わせる程度にしか話さない。泉には好きだけど付き合えないと言われたし、直接凪にどんな関係かと聞かれても答えられない。——そう考え、千夏はその方法を諦めた。

そんな時、ふと、SNSに目をやると、フォローしているアカウントから通知が届いていた。なんと、NAGIのリクエスト曲の歌配信と同時に、新曲発表があるという。泉に予定があったおかげでラッキーだ、と千夏は心の中でほくそ笑み、ラップトップを開いて配信の開始を待った。

画面が動き始め、『こんばんはー!』と元気な声が聞こえると改めて思う。——NAGIの声と泉の声が、あまりにも似ている。

千夏は、泉が愛おしそうに「千夏さん」と名を呼ぶ姿を思い出し目に浮かべた途端、胸の奥が熱くなり、どうしようもなく恥ずかしさに襲われた。
彼女にとって「好き」とは「付き合う」ことと同義である。だからこそ、泉から「付き合えない」と突き放されたあの瞬間は、頭の中が真っ白になるほどの衝撃だった。

――泉くんは、私のことを好きだって言ったのに。本命の彼女が別にいるから、付き合えないってことなの…?

疑念が芽生えるたびに、心はざわつく。思い出すのは、交際する気もないのに自分を抱いた泉の存在。そして、あの低く響く声で囁かれ、二度も抗えず流されてしまった自分の弱さ。
その記憶が蘇るたびに、怒りとも苛立ちともつかない感情が胸を締めつけ、モヤモヤとした澱みのように心に残り続けるのだった。

(実際、泉くんって何歳なんだろう…。凪ちゃんのお兄さんだから私と同じくらい?かな?)

あんなに大好きなNAGIが配信しているというのに、千夏の頭に浮かぶのは泉のことばかりだった。
二度も夜を共にしたというのに、思い返してみれば知っているのは名前と家の場所だけ。短大を卒業し、働き始めて三年目。二十三歳になる自分に比べ、泉は――「千夏さん」と、わざわざ“さん”付けで呼ぶあたり、もしかすると年下なのかもしれない。

そう考えた瞬間、カフェのオーナーが何気なく漏らした言葉を思い出す。――凪ちゃんはまだ高校生だよ、と。

(やっぱり、同じくらいか、少し下ってところかしら。もしそうなら、私ってば年下相手に何やってんだか…。)

凪は女性にしては背が高く、対して泉は男性としては低い方で、凪と泉はほとんど同じくらいの身長だった。それでも千夏よりはわずかに高いのだが…。

(遺伝って、なかなか思い通りにはいかないのね…。)

身長はそんなに高くなくとも、千夏を抱えて自宅まで連れてくるほどの筋力はある。抱かれているときに感じた男性特有の筋肉の硬さは千夏の好みの体系だった。体系のことを考えていたらやっぱり一つの疑問にたどり着く。

(…借りた服は本当に凪ちゃんのもの?)

凪が着るには小さめではなく小さすぎるのだ。何度も考えた自分とは付き合えない理由。あの服は凪ちゃんのものではなくて本命の彼女のものだったのでは…。そんな考えが浮かんできたのだ。

(今日は本命の彼女がいるから会えなかったの?)

千夏は、泉のことを意識しはじめていた。けれど、浮気相手になるつもりもなければ、誰かから奪う気持ちもない。だからこそ、どうにも言葉にできないもやもやが胸の奥で広がり続けていく。

――『リスナーのみんなー! 次は何が聞きたい?』

NAGIの明るい声が耳に飛び込んできて、はっと我に返る。

「……やだ。せっかくの配信中に、私ったら余計なことばかり考えてる。NAGIの配信に集中しなきゃ!」
< 10 / 28 >

この作品をシェア

pagetop