ピースな私と嘘つきなヒツジ
六畳ほどの狭い部屋には、着替えなどを入れる縦長のロッカーが数台と、オーナーが事務仕事に使うのか小さな事務机が置かれているだけだった。他に誰もいないこの空間で、千夏と凪は向かい合うように立っていた。
凪は気まずそうに眉を寄せ、何からどう説明すべきか言葉を探している。部屋に響くのは、時計の秒針だけ――『カチッ…カチッ…』と冷たく刻まれる音だった。
「……泉くんが、凪ちゃん……?」
沈黙に耐えられず、先に口を開いたのは千夏だった。
「そう。俺の名前は、泉じゃなくて――凪。」
「でも、凪ちゃんって、ちゃんと女の子の声してた……」
「こんな声?」
凪が高く、女性の声を少し意識したように出す。
「……うん。その声……ずっと騙されてたんだ……すごいね。」
「趣味でやってた動画配信で、女性ボーカルの真似をして歌う企画とか、色々やってたからね。」
「もしかして……」
「そう……俺が、千夏さんの推しのNAGIだよ。やっと高校を卒業したばかりのガキ。こんな奴で、ガッカリした?」
千夏は黙ったまま横に首を振った。
千夏の目は、信じられないという気持ちと、驚きで大きく見開かれていた。部屋の狭さと静けさが、二人の間の緊張感をさらに際立たせていた。
「女性の格好をしてたのは、さっき叔父さんが言ってた通りだよ。俺、アメリカに留学する予定なんだ。そのための資金稼ぎに、叔父さんの話に乗った感じ。さっきいた姉の泉がアメリカに今住んでるから、そこに住む予定。学校はまだ始まらないけど、近いうちにアメリカに行くつもりだよ。」
千夏は息を呑む。やっと少しずつ、事情が見えてきたような気がした――しかし、心のざわつきは収まらない。
「……じゃあ、好きだけど付き合えないって言ったのは、アメリカに行くから?」
「うん……。将来どうするかまだ決めてないし、待っててって言えないし、学生の身分で一緒に行こうとも言えないからね……。でも、千夏さんが俺のリスナーだって知って、最初はリスナーからの感想をダイレクトに聞きたくて、近づいただけだったんだ。それだけのつもりだったのに……千夏さんが店に来る度に、好きになっていったんだ。あの夜、千夏さんを家に連れて帰れて、本当に神様に感謝したよ。」
凪の言葉は、静かだけれど胸に刺さるような熱を帯びていた。千夏は言葉を失い、息が止まりそうになる。混乱と驚き、そして悪意があって騙されていたのではないとわかって心の奥で少しだけ芽生える安堵が入り混じり、視界が揺れた。
「私が借りた服は、泉さんの……?」
「うん。あのマンションには元々泉が住んでたんだ。俺は配信用に一部屋借りてて、泉がアメリカに行っても、そのまま借り続けてたんだよ。」
泉の服と言われれば、確かに納得のいくサイズだった。
「私……あんなに大好きだったNAGIの配信中も、上の空で……。気がつくと、あなたのことを考えてしまってて……。好かれて嬉しいんじゃなくて、私だって、好きになってたんだ。お互いに好き同士だって分かったのに……。それなのに……お別れなの?」
千夏の声は震え、目には薄っすらと涙がたまり始める。胸の奥に詰まった言葉にならない想いが、ぽつりぽつりと零れ落ちそうだった。
「うん……ごめん。」
「こんなに好きにさせておいて、サヨナラだなんて……。」
「俺……千夏さんのことが、本当に大好きなんだ。だから、俺になんか縛られずに、幸せな人生を送ってほしいんだ。」
「……年下なのに、そんな大人なこと言うなんて……。どんなに遠くても……遠距離でもいいからって、言えなくなるじゃん……。」
ついに堪えていた涙が、千夏の瞳から溢れ出した。
「……ごめん。」
凪はそっと千夏の頬を伝う涙を指ですくい取りながら、二度目の「ごめん」をそっと口にした。
「千夏さん、仕事のお昼休みにここに来たんでしょ?このまま泣き続けたら目が腫れちゃうよ?午後の仕事は大丈夫?」
「……目が腫れてなくても、こんな気持ちで仕事なんか無理だよぉ……」
千夏の声は震え、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。凪はその表情をそっと見つめ、何も言わずに手を握り返す――ただ、互いの存在を確かめるように。
「千夏さんが嫌じゃなかったら、この後、二人で過ごしたい。今日だけ、恋人として……。駄目……かな? きっと、もう会える日がないと思うから……。完全に俺の我が儘だけど……」
千夏は、胸の奥で揺れる気持ちを必死に整理しながら頷いた。恋人として、ほんの少しでもいい――そう、思い出を残したかったからだ。
その時間は、限られた小さな幸福だった。けれど千夏は心に決めた――彼の未来のために、自分の気持ちを押し付けて彼を縛ったりはしない、と。未来を縛ることはできないけれど、今日の記憶は二人の宝物になる――そう信じながら。
短くも濃密なひとときを胸に刻みながら、千夏は凪の手を握り返す。二人の心が、互いに寄せては返す波のように揺れる中で、静かに時間が流れていった。
凪は気まずそうに眉を寄せ、何からどう説明すべきか言葉を探している。部屋に響くのは、時計の秒針だけ――『カチッ…カチッ…』と冷たく刻まれる音だった。
「……泉くんが、凪ちゃん……?」
沈黙に耐えられず、先に口を開いたのは千夏だった。
「そう。俺の名前は、泉じゃなくて――凪。」
「でも、凪ちゃんって、ちゃんと女の子の声してた……」
「こんな声?」
凪が高く、女性の声を少し意識したように出す。
「……うん。その声……ずっと騙されてたんだ……すごいね。」
「趣味でやってた動画配信で、女性ボーカルの真似をして歌う企画とか、色々やってたからね。」
「もしかして……」
「そう……俺が、千夏さんの推しのNAGIだよ。やっと高校を卒業したばかりのガキ。こんな奴で、ガッカリした?」
千夏は黙ったまま横に首を振った。
千夏の目は、信じられないという気持ちと、驚きで大きく見開かれていた。部屋の狭さと静けさが、二人の間の緊張感をさらに際立たせていた。
「女性の格好をしてたのは、さっき叔父さんが言ってた通りだよ。俺、アメリカに留学する予定なんだ。そのための資金稼ぎに、叔父さんの話に乗った感じ。さっきいた姉の泉がアメリカに今住んでるから、そこに住む予定。学校はまだ始まらないけど、近いうちにアメリカに行くつもりだよ。」
千夏は息を呑む。やっと少しずつ、事情が見えてきたような気がした――しかし、心のざわつきは収まらない。
「……じゃあ、好きだけど付き合えないって言ったのは、アメリカに行くから?」
「うん……。将来どうするかまだ決めてないし、待っててって言えないし、学生の身分で一緒に行こうとも言えないからね……。でも、千夏さんが俺のリスナーだって知って、最初はリスナーからの感想をダイレクトに聞きたくて、近づいただけだったんだ。それだけのつもりだったのに……千夏さんが店に来る度に、好きになっていったんだ。あの夜、千夏さんを家に連れて帰れて、本当に神様に感謝したよ。」
凪の言葉は、静かだけれど胸に刺さるような熱を帯びていた。千夏は言葉を失い、息が止まりそうになる。混乱と驚き、そして悪意があって騙されていたのではないとわかって心の奥で少しだけ芽生える安堵が入り混じり、視界が揺れた。
「私が借りた服は、泉さんの……?」
「うん。あのマンションには元々泉が住んでたんだ。俺は配信用に一部屋借りてて、泉がアメリカに行っても、そのまま借り続けてたんだよ。」
泉の服と言われれば、確かに納得のいくサイズだった。
「私……あんなに大好きだったNAGIの配信中も、上の空で……。気がつくと、あなたのことを考えてしまってて……。好かれて嬉しいんじゃなくて、私だって、好きになってたんだ。お互いに好き同士だって分かったのに……。それなのに……お別れなの?」
千夏の声は震え、目には薄っすらと涙がたまり始める。胸の奥に詰まった言葉にならない想いが、ぽつりぽつりと零れ落ちそうだった。
「うん……ごめん。」
「こんなに好きにさせておいて、サヨナラだなんて……。」
「俺……千夏さんのことが、本当に大好きなんだ。だから、俺になんか縛られずに、幸せな人生を送ってほしいんだ。」
「……年下なのに、そんな大人なこと言うなんて……。どんなに遠くても……遠距離でもいいからって、言えなくなるじゃん……。」
ついに堪えていた涙が、千夏の瞳から溢れ出した。
「……ごめん。」
凪はそっと千夏の頬を伝う涙を指ですくい取りながら、二度目の「ごめん」をそっと口にした。
「千夏さん、仕事のお昼休みにここに来たんでしょ?このまま泣き続けたら目が腫れちゃうよ?午後の仕事は大丈夫?」
「……目が腫れてなくても、こんな気持ちで仕事なんか無理だよぉ……」
千夏の声は震え、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。凪はその表情をそっと見つめ、何も言わずに手を握り返す――ただ、互いの存在を確かめるように。
「千夏さんが嫌じゃなかったら、この後、二人で過ごしたい。今日だけ、恋人として……。駄目……かな? きっと、もう会える日がないと思うから……。完全に俺の我が儘だけど……」
千夏は、胸の奥で揺れる気持ちを必死に整理しながら頷いた。恋人として、ほんの少しでもいい――そう、思い出を残したかったからだ。
その時間は、限られた小さな幸福だった。けれど千夏は心に決めた――彼の未来のために、自分の気持ちを押し付けて彼を縛ったりはしない、と。未来を縛ることはできないけれど、今日の記憶は二人の宝物になる――そう信じながら。
短くも濃密なひとときを胸に刻みながら、千夏は凪の手を握り返す。二人の心が、互いに寄せては返す波のように揺れる中で、静かに時間が流れていった。