ピースな私と嘘つきなヒツジ
(…何の悪ふざけだろう?)
一瞬、品川に近距離で名前で呼ばれたことで動揺させられてしまったが、それは千夏の長らく錆びついたままの恋愛センサーを動かすほどの衝撃ではない。おそらく、品川のお調子者な性格が、肝心なところで邪魔をしたのだろう。
気を取り直し、資料に目を通していたそのときだった。
視界の端に、今年入社したばかりの女子社員が、不安げにキョロキョロと周囲を見渡す姿が映った。
「ねぇ、どうしたの? 何かあった?」
自然と、先輩として声をかけていた。
「実は……課長宛にお客様がいらしているのですが、まだお昼休みから戻られていなくて……。」
応接室の予約は取られていたが、肝心の課長の姿が見えない。
どうすべきか分からず不安になったのだろう。来客予定の時刻までは、まだ三十分。先ほど喫煙ルームで品川が『課長と一緒だった』と言っていたから、昼食はもう済ませているはずだ。客を控えている以上、遠くへ行くこともないだろう。
「課長から話は聞いているので、戻られるまで私が対応しますね。とりあえず、先方へのお茶出しをお願いします。」
千夏がそう告げると、女の子の顔に安堵の色が広がった。
(課長は、きっとすぐに戻るはず……)
千夏は個人のスマホから課長へ『お客様が既にお見えです』と短くメッセージを送り、ラップトップを閉じてデスクのモニターをつなぐケーブルを外した。
(資料はちゃんと読み込んだ。大丈夫、大丈夫!)
そう自分に言い聞かせながら、千夏は応接室へと向かった。
『コンコン…』
「失礼します。」
ノックをして扉を開けると、窓際にひとりの背の高い男性が立っていた。高層ビル群を見下ろすように、31階からの景色を静かに眺めている。千夏の務める課の応接室はビルの角にあり、そこから広がる視界は展望台にも劣らないほどだった。
(テーブルのお茶がひとつ……。今来ているのは、この人だけみたいね。)
応接セットに置かれた湯気の立つカップが、その事実を物語っていた。
「ここからの景色、とても綺麗ですね。」
男性は柔らかな口調でそう言い、ゆるやかに振り返った。その瞬間、千夏の耳に届いたのは、大好きな低音のハスキーボイスだった。
「えっ…。」
「あっ…。」
互いの顔を認めた瞬間、二人とも言葉を失った。
千夏は込み上げてくる熱に目頭がじわりと熱くなるのを感じ、奥歯をきゅっと噛みしめた。
「……千夏さんだ。ここのビルで打ち合わせがあるって聞いてから、ずっと奇跡でも起きて千夏さんに会えたらって思ってた。」
「な……凪? 本物……?」
「あぁ。本物だよ。」
振り返った男性は、千夏の記憶にある凪とはまるで違っていた。背は一段と高く、髪型も服装も今風に洗練されている。垢抜けた雰囲気はまるでモデルのようで、五年前に黒縁メガネをかけていた彼の姿とは重ならない。別人と見間違えるほどだった。
「背……伸びたね。」
「うん。あれから二十センチくらいは伸びた。俺、遅咲きだった見たい…。」
「私の知ってる凪は、こんなにおしゃれな人じゃなかった。……こんな凪、知らない。」
「あー……。ここに来る前にクライアントさんとの初顔合わせがあってさ。スタイリストさんに服も髪も色々いじられたんだ。……ダメかな?」
凪は少し照れくさそうに笑う。
千夏は黙って、ゆるく首を横に振った。
「いつ、日本に戻ってきたの?」
「一か月前かな。」
「どうして……連絡くれなかったの?」
「千夏さんだって、今まで一度も連絡くれなかったじゃん。」
「それは……。凪の未来を、邪魔する存在になりたくなかったから。」
動揺を隠しきれず、必死に涙を堪える千夏。その姿を見つめながら、凪は一歩、そしてまた一歩と静かに距離を詰めていった。
「俺……もし千夏さんに会えたら、どうしても伝えたいことがあったんだ。」
「……え? なに?」
「千夏さん。俺、歌手としてデビューが決まった。少しは“一人前の男”になれたつもりなんだ。」
「……うん。ネクストブレイクって言われてるんでしょ? もう、すっかり私の手の届かない人になっちゃったね。」
その言葉を遮るように、凪はそっと千夏の手を取った。
「千夏さん、よく聞いて。」
「……うん。」
「俺、今でも千夏さんのことが大好きなんだ。」
「私も凪のことずっと大好き…。ファンとしてじゃなくて、1人の男性として大好きよ。」
「俺と結婚してほしい。千夏さんの手料理が、また食べたいんだ。俺だって、毎朝コーヒーを淹れるよ。だから……俺の、お嫁さんになってくれない?」
突然のプロポーズに、千夏の心は大きく揺さぶられ、言葉が見つからなかった。
「……ごめん。そのプロポーズには応えられない。」
千夏が震える声でそう告げた、その直後だった。
コンコン、と無情にも扉が叩かれる音が響く。
次の瞬間、課長と、凪と共に来るはずだった数名が応接室へ足を踏み入れた。
あと一瞬でも遅ければ――二人はもう少しだけ、この答えを確かめ合えたのかもしれない。
千夏と凪は慌てて互いから身を離し、何事もなかったかのように距離をとった。千夏の胸の奥には、言葉にならなかった想いだけが置き去りにされていた。
一瞬、品川に近距離で名前で呼ばれたことで動揺させられてしまったが、それは千夏の長らく錆びついたままの恋愛センサーを動かすほどの衝撃ではない。おそらく、品川のお調子者な性格が、肝心なところで邪魔をしたのだろう。
気を取り直し、資料に目を通していたそのときだった。
視界の端に、今年入社したばかりの女子社員が、不安げにキョロキョロと周囲を見渡す姿が映った。
「ねぇ、どうしたの? 何かあった?」
自然と、先輩として声をかけていた。
「実は……課長宛にお客様がいらしているのですが、まだお昼休みから戻られていなくて……。」
応接室の予約は取られていたが、肝心の課長の姿が見えない。
どうすべきか分からず不安になったのだろう。来客予定の時刻までは、まだ三十分。先ほど喫煙ルームで品川が『課長と一緒だった』と言っていたから、昼食はもう済ませているはずだ。客を控えている以上、遠くへ行くこともないだろう。
「課長から話は聞いているので、戻られるまで私が対応しますね。とりあえず、先方へのお茶出しをお願いします。」
千夏がそう告げると、女の子の顔に安堵の色が広がった。
(課長は、きっとすぐに戻るはず……)
千夏は個人のスマホから課長へ『お客様が既にお見えです』と短くメッセージを送り、ラップトップを閉じてデスクのモニターをつなぐケーブルを外した。
(資料はちゃんと読み込んだ。大丈夫、大丈夫!)
そう自分に言い聞かせながら、千夏は応接室へと向かった。
『コンコン…』
「失礼します。」
ノックをして扉を開けると、窓際にひとりの背の高い男性が立っていた。高層ビル群を見下ろすように、31階からの景色を静かに眺めている。千夏の務める課の応接室はビルの角にあり、そこから広がる視界は展望台にも劣らないほどだった。
(テーブルのお茶がひとつ……。今来ているのは、この人だけみたいね。)
応接セットに置かれた湯気の立つカップが、その事実を物語っていた。
「ここからの景色、とても綺麗ですね。」
男性は柔らかな口調でそう言い、ゆるやかに振り返った。その瞬間、千夏の耳に届いたのは、大好きな低音のハスキーボイスだった。
「えっ…。」
「あっ…。」
互いの顔を認めた瞬間、二人とも言葉を失った。
千夏は込み上げてくる熱に目頭がじわりと熱くなるのを感じ、奥歯をきゅっと噛みしめた。
「……千夏さんだ。ここのビルで打ち合わせがあるって聞いてから、ずっと奇跡でも起きて千夏さんに会えたらって思ってた。」
「な……凪? 本物……?」
「あぁ。本物だよ。」
振り返った男性は、千夏の記憶にある凪とはまるで違っていた。背は一段と高く、髪型も服装も今風に洗練されている。垢抜けた雰囲気はまるでモデルのようで、五年前に黒縁メガネをかけていた彼の姿とは重ならない。別人と見間違えるほどだった。
「背……伸びたね。」
「うん。あれから二十センチくらいは伸びた。俺、遅咲きだった見たい…。」
「私の知ってる凪は、こんなにおしゃれな人じゃなかった。……こんな凪、知らない。」
「あー……。ここに来る前にクライアントさんとの初顔合わせがあってさ。スタイリストさんに服も髪も色々いじられたんだ。……ダメかな?」
凪は少し照れくさそうに笑う。
千夏は黙って、ゆるく首を横に振った。
「いつ、日本に戻ってきたの?」
「一か月前かな。」
「どうして……連絡くれなかったの?」
「千夏さんだって、今まで一度も連絡くれなかったじゃん。」
「それは……。凪の未来を、邪魔する存在になりたくなかったから。」
動揺を隠しきれず、必死に涙を堪える千夏。その姿を見つめながら、凪は一歩、そしてまた一歩と静かに距離を詰めていった。
「俺……もし千夏さんに会えたら、どうしても伝えたいことがあったんだ。」
「……え? なに?」
「千夏さん。俺、歌手としてデビューが決まった。少しは“一人前の男”になれたつもりなんだ。」
「……うん。ネクストブレイクって言われてるんでしょ? もう、すっかり私の手の届かない人になっちゃったね。」
その言葉を遮るように、凪はそっと千夏の手を取った。
「千夏さん、よく聞いて。」
「……うん。」
「俺、今でも千夏さんのことが大好きなんだ。」
「私も凪のことずっと大好き…。ファンとしてじゃなくて、1人の男性として大好きよ。」
「俺と結婚してほしい。千夏さんの手料理が、また食べたいんだ。俺だって、毎朝コーヒーを淹れるよ。だから……俺の、お嫁さんになってくれない?」
突然のプロポーズに、千夏の心は大きく揺さぶられ、言葉が見つからなかった。
「……ごめん。そのプロポーズには応えられない。」
千夏が震える声でそう告げた、その直後だった。
コンコン、と無情にも扉が叩かれる音が響く。
次の瞬間、課長と、凪と共に来るはずだった数名が応接室へ足を踏み入れた。
あと一瞬でも遅ければ――二人はもう少しだけ、この答えを確かめ合えたのかもしれない。
千夏と凪は慌てて互いから身を離し、何事もなかったかのように距離をとった。千夏の胸の奥には、言葉にならなかった想いだけが置き去りにされていた。