ピースな私と嘘つきなヒツジ
「いやー、彼が例の子か。顔を隠して活動しているなんて、もったいないな」

課長は足音を響かせながら、凪のマネージャーや広告代理店の面々を従えて部屋に踏み込んできた。その堂々とした態度に、空気が一瞬引き締まる。

「本人がどうしても嫌がるもので……。こちらとしても、全てを公開して売り出したいのですが。まあ、戦略のひとつとして受け取っていただければ幸いです。」

マネージャーらしき人物が、どう答えるかがベストなのか言葉を選びながら探る様に答える。

「どうぞ、お掛けください。」

千夏は微かに笑みを浮かべ、腕を前に差し出して軽く会釈する。背筋を伸ばしながら、ぎこちなくも落ち着いた振る舞いで、客たちを案内した。心の奥では、少しの緊張と期待が入り混じっていた。

課長は満足げに笑みを浮かべながら、広告代理店の担当者へ千夏「紹介した。
「彼女が今後の担当窓口になるから、よろしく頼むよ。」

それを合図に、商品の開発経緯やコンセプトについての説明が始まった。担当するのは千夏ではなく、別の社員だ。凪は配られた資料に視線を落とし、黙って耳を傾けていた。

ページをめくる音と、説明の声だけが部屋を満たす。凪と千夏は言葉を交わすことも、目を合わせることも一度もなかった。

(どうしよう……きっと誤解されてしまった。避けられてる……)

千夏は説明の内容を追いながらも、心ここにあらずだった。先ほど課長たちが突然入室してきたせいで、肝心なことを凪に伝えきれずにいる。

「この後、このメンバーで食事なんてどうですか?」

課長の声が、空気を弾ませるように響いた。

「そうですね。せっかくですから、NAGIも含めてご一緒させていただきます。」

マネージャーが快く応じると、場は和やかに盛り上がり、そのまま打ち合わせは終了した。しかし、千夏の胸のざわめきは、いっこうに収まりそうになかった。

小客である課長の言葉に、凪のマネージャーも広告代理店の人々も乗り気で笑みを交わしていたが、その輪の中で、凪だけは表情を曇らせたまま、口数も少なかった。無理もない。千夏にプロポーズを断られた直後なのだから。

五年前の記憶を、彼は色褪せることなく大切に胸に抱き、遠いアメリカで幾度となく思い返していた。千夏も同じ気持ちでいてくれている——そう、凪は疑いなく信じていた。だからこそ、マネージャーから打ち合わせの場所を聞き、そこが彼女が働いていたビルだと知った時は運命を確信したのだ。
――もしそこで千夏さんに再び出逢えたなら、それはもう完全に運命の証だ。
そう思い込んだ上での、先ほどの再会だった。

だが今、彼の胸の中で描いていた未来は音を立てて崩れかけている。

飲みに行く気分など到底なかったが、マネージャーに半ば強引に肩を押され、凪も席を立つしかなかった。

一方で、一番下っ端の千夏は、会社の慣例どおり「行きつけ」の店を探し、慌ただしく予約を入れていた。少し背伸びをしたような、個室のある小ぎれいな居酒屋。電話口で「人数と時間を告げる声は落ち着いていたが、胸の内では波立つ感情をどうにも抑えきれずにいた。早く誤解を解きたいのに神様は味方してくれないようだった。
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