ピースな私と嘘つきなヒツジ
5.伝いたい言葉
全席個室の造りとなっているその居酒屋は、豊富な酒の品揃えと落ち着いた雰囲気で、千夏の会社の上役たちにとって定番の店だった。間接照明に照らされた黒基調の空間は、個室と個室のあいだに細い通路を挟み、どこかラグジュアリーな静けさを漂わせている。大人のための隠れ家、といった趣だった。
全員が席につき、手元に飲み物が行き渡ったのを確認すると、課長が張り切った様子で立ち上がった。グラスを高々と掲げ、声を張る。
「では、皆さんの飲み物も揃ったことですし――」
その一声で、場の空気がひとつにまとまる。誰もがグラスを手に取り、揃って「乾杯」と声を合わせた。次の瞬間、食器の触れ合う音とともに、酒や料理がそれぞれの口へと運ばれていった。
下っ端の千夏は、店員とのやりとりがしやすいように下座に腰を下ろした。自然と、個室の奥――上席に囲まれるように座った凪とは、気軽に言葉を交わせる距離ではなくなってしまった。
やがてスタッフが千夏の前に立ち、本日のお勧めや旬の料理について一通り説明を終える。だが、インカムから飛んできた呼び出しに小さく「はい」と返事をすると、慌ただしい足取りで別の客の対応に向かっていった。
残された千夏は、ひとつ息を吐くようにグラスを手に取り、口をつける。
(ふー……。取りあえず、この人数でも席が取れて良かった。)
喉を潤したあと、ふと顔を上げると、個室の奥が目に入った。そこでは新人とはいえ「次のブレイク」として注目される歌手・凪が、好奇心を隠さない上司たちに囲まれ、矢継ぎ早に質問を浴びせられている。おまけに当然のようにビールを注がれ、グラスを差し出す姿もどこか所在なさげだ。
しかし凪の表情は、終始曇ったまま。千夏の方を一度も振り返ることなく、ただ注がれるままのアルコールを無言で飲み干していった。
(…二十歳超えたんだからお酒飲むのは当たり前か。)
アルコールを口にする凪の姿を見ながら、千夏は胸の奥に不思議な感覚を抱いていた。母親のようでもあり、姉のようでもある――けれど、そのどちらとも違う。今まで一度も見たことのない凪の飲む姿に、ただの違和感を覚えているのか、それとも「成長」という時の流れを実感しているのか。自分でもはっきり言葉にできない感情が、静かに胸を満たしていた。
(それにしても……飲むペース、早すぎない? 課長たちってば、いくらなんでも飲ませすぎ!)
注げば注ぐほど、まるで底なしの器のようにアルコールを受け入れていく凪。その様子を面白がるように、上司たちは若い頃のノリで次々とグラスを満たしていく。
千夏の胸はざわついていた。誤解されているに違いない、このままではいけない。さっき伝えられなかった言葉をどうしても伝いたい!どうにかして言葉を交わす機会をつくりたい――そう思い、アイコンタクトで合図を送ろうとした。しかし、下を向いてばかりの凪の視線が千夏に向けられることはなかった。
全員が席につき、手元に飲み物が行き渡ったのを確認すると、課長が張り切った様子で立ち上がった。グラスを高々と掲げ、声を張る。
「では、皆さんの飲み物も揃ったことですし――」
その一声で、場の空気がひとつにまとまる。誰もがグラスを手に取り、揃って「乾杯」と声を合わせた。次の瞬間、食器の触れ合う音とともに、酒や料理がそれぞれの口へと運ばれていった。
下っ端の千夏は、店員とのやりとりがしやすいように下座に腰を下ろした。自然と、個室の奥――上席に囲まれるように座った凪とは、気軽に言葉を交わせる距離ではなくなってしまった。
やがてスタッフが千夏の前に立ち、本日のお勧めや旬の料理について一通り説明を終える。だが、インカムから飛んできた呼び出しに小さく「はい」と返事をすると、慌ただしい足取りで別の客の対応に向かっていった。
残された千夏は、ひとつ息を吐くようにグラスを手に取り、口をつける。
(ふー……。取りあえず、この人数でも席が取れて良かった。)
喉を潤したあと、ふと顔を上げると、個室の奥が目に入った。そこでは新人とはいえ「次のブレイク」として注目される歌手・凪が、好奇心を隠さない上司たちに囲まれ、矢継ぎ早に質問を浴びせられている。おまけに当然のようにビールを注がれ、グラスを差し出す姿もどこか所在なさげだ。
しかし凪の表情は、終始曇ったまま。千夏の方を一度も振り返ることなく、ただ注がれるままのアルコールを無言で飲み干していった。
(…二十歳超えたんだからお酒飲むのは当たり前か。)
アルコールを口にする凪の姿を見ながら、千夏は胸の奥に不思議な感覚を抱いていた。母親のようでもあり、姉のようでもある――けれど、そのどちらとも違う。今まで一度も見たことのない凪の飲む姿に、ただの違和感を覚えているのか、それとも「成長」という時の流れを実感しているのか。自分でもはっきり言葉にできない感情が、静かに胸を満たしていた。
(それにしても……飲むペース、早すぎない? 課長たちってば、いくらなんでも飲ませすぎ!)
注げば注ぐほど、まるで底なしの器のようにアルコールを受け入れていく凪。その様子を面白がるように、上司たちは若い頃のノリで次々とグラスを満たしていく。
千夏の胸はざわついていた。誤解されているに違いない、このままではいけない。さっき伝えられなかった言葉をどうしても伝いたい!どうにかして言葉を交わす機会をつくりたい――そう思い、アイコンタクトで合図を送ろうとした。しかし、下を向いてばかりの凪の視線が千夏に向けられることはなかった。