ピースな私と嘘つきなヒツジ
今日を逃したら、凪に一生避けられてしまう――そんな予感が胸を締めつけていた。二度と二人きりで言葉を交わすことはできなくなるかもしれない。だからこそ、どうにかして千夏の想いを伝えるきっかけが欲しかった。
(……ほんの少しでいい。せめて、少しだけでも話したい。)
周囲のグラスの減り具合に目を走らせながら、千夏は必死にその機会を探していた。
追加の飲み物が運ばれ、テーブルに置かれたその瞬間だった。
手首に巻いたスマートウォッチが小さく震える。視線を落とすと、ディスプレイに浮かんでいたのは――品川からの着信。
アイボリーのビジネストートからスマホを取り出し、千夏は足早に個室を出た。
「もしもし?どうした?」
『あ、先輩?今どこっすか?』
「今?課長たちと会社近くのダイニングバーにいるけど……」
『あー……アルテミス?』
「そう。」
『今からそっち行くんで、待ってて。』
言い終えるや否や、通話は一方的に切れた。
なんの用だろう――。千夏には見当もつかない。ただ、胸の奥にかすかな不安がよぎる。トラブルでも起きたのだろうか。
職場のすぐそばにあるここの店。
『待ってて』と言われた千夏は個室に戻らず、入口近くで立ち止まっていた。待つこと十分足らず、品川が小走りで駆け込んでくる。肩で息をしながら、彼は白い大きめの紙袋を差し出した。
「はい、これ。お客さんの忘れ物だって」
「そうだったの? 慌ただしく出ちゃったから気づかなかったわ。ありがとう。」
「……あんまり飲みすぎるなよ」
息を切らした声は、自然とタメ口混じりになっていた。
同い年なのだから構わない。そう思いながらも、千夏の胸には昼間の出来事がよぎる。
――いつものように「先輩」ではなく、「千夏」と呼ばれたこと。
「大丈夫。お客様もいらっしゃるから、乾杯の一口しか飲んでないわ。」
「そうか……。何かあったら連絡して、先輩。俺、まだ会社で仕事中だから。」
品川の千夏への呼び方は、いつもと変わらない。昼間に軽口を叩かれ、からかわれたのだろうと察せられた。
店を出ていく品川の背中が見えなくなるのを確かめると、千夏はふっと小さく息を吐き、くるりと踵を返して店の奥へと戻ると、個室の入り口に差しかかると、そこには凪が壁にもたれかかり、腕を組んだまま静かに佇んでいた。
「……凪?」
千夏は、さっき伝えられなかった言葉の続きを今なら言えるかもしれない――そう期待した。だが、凪の纏う空気は、苛立ちとも怒りともつかない、憤りに近いものを孕んでいて、胸の奥がざわつく。
「……そーゆうことか。」
「えっ?」
「アイツと付き合ってるから、俺とはないってこと?」
千夏は慌てて首を振った。どうやら品川と話してるのを見て誤解しているのだろう。
「ち、違う。彼とはそんな関係じゃない。私は……あなただけを、ずっと思ってた。」
「じゃあ、なんでっ――。」
声がわずかに荒んで響いたその瞬間。
「おっ? 市島くんじゃないか。ちょうど良かった、トイレはどっちだ?」
ふらつく足取りで課長が個室から姿を現した。千夏は仕方なく彼をお手洗いまで案内する。用件を済ませて慌ただしく個室へ戻ったものの――先ほどまで凪がいた場所にも、奥の席にも、凪の姿はもうどこにもなかった。
(……ほんの少しでいい。せめて、少しだけでも話したい。)
周囲のグラスの減り具合に目を走らせながら、千夏は必死にその機会を探していた。
追加の飲み物が運ばれ、テーブルに置かれたその瞬間だった。
手首に巻いたスマートウォッチが小さく震える。視線を落とすと、ディスプレイに浮かんでいたのは――品川からの着信。
アイボリーのビジネストートからスマホを取り出し、千夏は足早に個室を出た。
「もしもし?どうした?」
『あ、先輩?今どこっすか?』
「今?課長たちと会社近くのダイニングバーにいるけど……」
『あー……アルテミス?』
「そう。」
『今からそっち行くんで、待ってて。』
言い終えるや否や、通話は一方的に切れた。
なんの用だろう――。千夏には見当もつかない。ただ、胸の奥にかすかな不安がよぎる。トラブルでも起きたのだろうか。
職場のすぐそばにあるここの店。
『待ってて』と言われた千夏は個室に戻らず、入口近くで立ち止まっていた。待つこと十分足らず、品川が小走りで駆け込んでくる。肩で息をしながら、彼は白い大きめの紙袋を差し出した。
「はい、これ。お客さんの忘れ物だって」
「そうだったの? 慌ただしく出ちゃったから気づかなかったわ。ありがとう。」
「……あんまり飲みすぎるなよ」
息を切らした声は、自然とタメ口混じりになっていた。
同い年なのだから構わない。そう思いながらも、千夏の胸には昼間の出来事がよぎる。
――いつものように「先輩」ではなく、「千夏」と呼ばれたこと。
「大丈夫。お客様もいらっしゃるから、乾杯の一口しか飲んでないわ。」
「そうか……。何かあったら連絡して、先輩。俺、まだ会社で仕事中だから。」
品川の千夏への呼び方は、いつもと変わらない。昼間に軽口を叩かれ、からかわれたのだろうと察せられた。
店を出ていく品川の背中が見えなくなるのを確かめると、千夏はふっと小さく息を吐き、くるりと踵を返して店の奥へと戻ると、個室の入り口に差しかかると、そこには凪が壁にもたれかかり、腕を組んだまま静かに佇んでいた。
「……凪?」
千夏は、さっき伝えられなかった言葉の続きを今なら言えるかもしれない――そう期待した。だが、凪の纏う空気は、苛立ちとも怒りともつかない、憤りに近いものを孕んでいて、胸の奥がざわつく。
「……そーゆうことか。」
「えっ?」
「アイツと付き合ってるから、俺とはないってこと?」
千夏は慌てて首を振った。どうやら品川と話してるのを見て誤解しているのだろう。
「ち、違う。彼とはそんな関係じゃない。私は……あなただけを、ずっと思ってた。」
「じゃあ、なんでっ――。」
声がわずかに荒んで響いたその瞬間。
「おっ? 市島くんじゃないか。ちょうど良かった、トイレはどっちだ?」
ふらつく足取りで課長が個室から姿を現した。千夏は仕方なく彼をお手洗いまで案内する。用件を済ませて慌ただしく個室へ戻ったものの――先ほどまで凪がいた場所にも、奥の席にも、凪の姿はもうどこにもなかった。