ピースな私と嘘つきなヒツジ
自宅に着いたのは、午後十時半を少し過ぎた頃だった。
玄関の扉を押し開け、シューズボックスの上にキーを置く。履き慣れたパンプスを脱ぎ、無意識の手つきで靴用の消臭バッグを差し込んだ。

あの場から、何も言わず姿を消した彼。理由を尋ねても、マネージャーは首を振るばかりで、答えはどこにもなかった。

――もっとちゃんと、自分の気持ちを伝えたかったのに。

運命のような再会を果たしたはずなのに、胸に残っているのは後悔だけだった。
五年前も、そして今も…。縁があるのに、なぜかいつも噛み合わない。

「結婚は、今じゃないんだよ……凪ぃ。」

小さくつぶやき、スマホの画面を見つめる。
アドレス帳には、凪の名前と番号が、無言のまま灯っていた。

昔も今も、変わらない。自分から連絡をしなくてはと思いながら、結局は手を伸ばせずにいる。仕事を覚え、後輩ができ、大人の顔を取り繕えるようになった今でさえ、肝心な場面では足がすくむのだ。

ベッドの上に正座したまま、画面の灯りを前に固まっていた、あの夜。
初めて凪に電話をかけようと、何度もためらい、胸の奥で鼓動が暴れていた夜の記憶が、ふいに甦る。
先ほどまで凪の電話番号が表示されていたスマホの画面は真っ暗になり、そこに映っていたのは行動できない自分の姿だった。

「はぁーーー……。」

深いため息を吐いて使い道のないスマホをソファに投げた。

カチャリ、と音を立てて、リビングと寝室をつなぐ扉が開いた。

「千夏、帰ってたの?」

ソファに腰を下ろしていた千夏が顔を上げる。

「あ……お姉ちゃん。もしかして起こしちゃった? 今帰ってきたところ。」

「いや、起きてたよ。澪の“絵本読んで読んで攻撃”にあってね。夕飯の片付け、まだ終わってないんだ。」

「それなら、私がやるよ。」

「いいって。帰ってきたばかりでしょ? 疲れてるじゃない?」

「でも、澪の面倒を見てもらってるんだもん。それくらい私がやらなきゃ。」

「澪のことは、私が好きでやってるんだから気にしないで。どうせ独身、彼氏なし。ははっ。」

軽口を叩く姉に、千夏は小さく笑った。

千夏は四年前、一人暮らしをやめて独身主義の姉の春海(はるみ)と住み始めた。姉は両親から『結婚する気がないならせめて自立しなさい。』と追い出され、そのタイミングで、千夏は姉の家に転がり込むように同居を始めた。

仲の良い姉妹だったこともあり、同居生活は拍子抜けするほど穏やかに続いている。

そして今、この家にはもう一人、小さな家族がいる。
四歳になる澪。無邪気に絵本をせがむその子は――姉の娘ではない。千夏が産んだ、千夏自身の娘だった。

姉は役所勤めで、定時になればきっちり仕事を終えて帰ってこられる。だから、今日のように千夏がどうしても保育園に迎えに行けないときは、自然にその役目を姉に任せていた。
結婚にまるで興味を示さない姉だが、なぜか姪のこととなると口うるさいほど熱心だ。時には説教めいた調子で育児に口を出しつつも、手を貸すのを惜しまない。
その姿はどこか母親そのもののようで――澪にとっては母親が二人いるような、不思議で温かな家庭ができあがっていた。

「千夏が突然大きなお腹でうちに来た時はどうなることかと思ったけれど、順調にスクスク良い子に育ってるよ。」

春海は、台所で皿を洗う千夏の背を横目に、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「プシュッ」と心地よい音を響かせ、ソファに腰を下ろす。

「……あの時は、絶対にこの子を産みたかったの。」

千夏はふと手を止め、水滴のついた指先をぎゅっと握りしめる。

「……ずっと内緒にしていて、ごめんなさい。」

彼女の小さな声に、春海は胸の奥が熱くなるのを感じた。

あの時、両親も姉も驚きはしたものの、問い詰めることはなかった。高校を卒業したばかりの凪から未来を奪うことは、誰にも許されないことだった。
責任を背負うべきは、むしろ成人していた千夏の方だ。
誰に何を言われようと、真実を隠し通す覚悟はあった。
それでも両親は「父親は誰だ」と詰問することなく、生まれてくる命のことだけを思い、ただひたすら千夏を支えようと決めた。

あれから五年。凪と出会ったことで、千夏には愛しい存在が二人も与えられた。
この奇跡だけは、いくら神に感謝してもし尽くせない――そう思わずにはいられなかった。
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