ピースな私と嘘つきなヒツジ
母親の朝は、シングルであろうとなかろうと慌ただしい。
澪を保育園へ送り届けたあとには、家を出る前にきちんと整えたはずの髪も化粧もすっかり乱れてしまう。駅のトイレのパウダーコーナーで身なりを整え直すのが、千夏の小さな習慣になっていた。
職場のあるオフィスビルの一階には、コンビニと大手カフェチェーンが入っている。二日に一度、そこのカフェで甘めのラテを頼むのが、彼女にとってささやかな贅沢だった。
「おはようございます! いらっしゃいませ!」
店員の元気な声に背を押されるように、千夏の心は仕事モードへ切り替わっていく。
ラテが出来上がるのを受け取りカウンターで待っていると、背後から声がかかった。
「先輩、おはようございます。」
振り返れば、後輩の品川が立っていた。
「おはよう。昨日は忘れ物を届けてくれてありがとう。先方さん、すごく感謝してたよ。」
「お役に立てて良かったです。」
品川は少し照れくさそうに笑った。
「ホットのラテ、ホイップ追加のお客様〜?」
「あ、はい! 私です。」
千夏がカップを受け取ると、すぐに品川のホットコーヒーも出来上がった。二人は並んで店を出て、エレベーターホールへ向かう。
「あの後、会社に戻ったみたいだけど……忙しいの?」
「いや、そんなことないっすよ。」
「じゃあ、すぐ帰れたんだ。」
「……まぁ、そんなとこっすね。」
歯切れの悪い答えに、千夏は首をかしげる。
「なぁに、その言い方。何かあるの?」
品川は一瞬だけ視線を逸らし、ためらいがちに口を開いた。
「あー……。先輩に何かあったら駆けつけられるように、近くにいただけです。」
「……え?」
思いもよらぬ言葉に、千夏は目を見開いた。見上げると、品川は真顔でこちらを見ている。
「……冗談っすよ。」
そう付け加えて口元に笑みを浮かべた瞬間、千夏の胸の奥に熱がこもった。
「そ、そうよね。冗談ね。もぅ、朝から変な冗談やめてよ」
額や背中にじわりと汗が滲む。気まずさを振り払うように、彼女はエレベーターの階数表示を何度も見上げた。
一刻も早くドアが開いてくれることを祈りながら。
「娘ちゃん、どんなキャラクターが好きなんですか?」
「えっ、娘? そうね……今は“ぺこミミちゃん”かな。」
「ぺこミミ……何すかそれ。」
「耳が垂れてるウサギのキャラクターよ。やたらと色んなことに謝るの。大人から見るとちょっとシュールなんだけど、娘はすっかり気に入っちゃって。保育園で使う小物も、ぜんぶそれで揃えてるの。」
「へぇー。」
「……って、なんで急にそんなこと聞くの?」
「いや、なんとなくです。」
「ふーん……。」
一瞬、会話が途切れた。けれど品川は、ふいに別の話を持ち出す。
「てっきり先輩、結婚するもんだと思ってました。だから、産休育休から戻ってきても“未だ独身”って聞いた時、正直びっくりしたんです。」
「……まぁ、普通は結婚、よね。」
なぜ今さらそんな話をするのか。千夏には意味がわからなかった。ちょうどその時、エレベーターが到着の音を鳴らし、二人は乗り込む。
密室の静けさの中で、品川の声が低く響いた。
「なんか……育児も仕事も全力で頑張ってる先輩を見てたら、完全に心を持っていかれました。やっと、決心がついたんです。」
「えっ? 何? どういうこと?」
「あー……そうですよね。鈍感な先輩には、俺の気持ち伝わってなかったですよね。」
「え……?」
「俺、娘ちゃんの父親になってもいいって思ってます。今度、娘ちゃん紹介してください。」
その言葉に、千夏は言葉を失った。心臓の鼓動だけが、やけに大きく耳に響いていた。
「先輩のタイミングでいいですから。俺、いつまでも待ってるんで」
その一言を残し、エレベーターはちょうど三十一階に到着した。扉が開くと同時に、品川は軽やかに先に降りていく。
取り残された千夏は、しばしその背中を見送ったまま立ち尽くした。
さっきまでの言葉が、まだ胸の奥で反響している。
――待ってる。
ドアが閉まりかけて、慌てて千夏も足を踏み出す。廊下に出ると、少し先を歩く品川の背中はもういつもの距離感に戻っていて、まるで何事もなかったかのようだった。
けれど千夏の鼓動だけは、簡単に“いつも通り”には戻ってくれなかった。
澪を保育園へ送り届けたあとには、家を出る前にきちんと整えたはずの髪も化粧もすっかり乱れてしまう。駅のトイレのパウダーコーナーで身なりを整え直すのが、千夏の小さな習慣になっていた。
職場のあるオフィスビルの一階には、コンビニと大手カフェチェーンが入っている。二日に一度、そこのカフェで甘めのラテを頼むのが、彼女にとってささやかな贅沢だった。
「おはようございます! いらっしゃいませ!」
店員の元気な声に背を押されるように、千夏の心は仕事モードへ切り替わっていく。
ラテが出来上がるのを受け取りカウンターで待っていると、背後から声がかかった。
「先輩、おはようございます。」
振り返れば、後輩の品川が立っていた。
「おはよう。昨日は忘れ物を届けてくれてありがとう。先方さん、すごく感謝してたよ。」
「お役に立てて良かったです。」
品川は少し照れくさそうに笑った。
「ホットのラテ、ホイップ追加のお客様〜?」
「あ、はい! 私です。」
千夏がカップを受け取ると、すぐに品川のホットコーヒーも出来上がった。二人は並んで店を出て、エレベーターホールへ向かう。
「あの後、会社に戻ったみたいだけど……忙しいの?」
「いや、そんなことないっすよ。」
「じゃあ、すぐ帰れたんだ。」
「……まぁ、そんなとこっすね。」
歯切れの悪い答えに、千夏は首をかしげる。
「なぁに、その言い方。何かあるの?」
品川は一瞬だけ視線を逸らし、ためらいがちに口を開いた。
「あー……。先輩に何かあったら駆けつけられるように、近くにいただけです。」
「……え?」
思いもよらぬ言葉に、千夏は目を見開いた。見上げると、品川は真顔でこちらを見ている。
「……冗談っすよ。」
そう付け加えて口元に笑みを浮かべた瞬間、千夏の胸の奥に熱がこもった。
「そ、そうよね。冗談ね。もぅ、朝から変な冗談やめてよ」
額や背中にじわりと汗が滲む。気まずさを振り払うように、彼女はエレベーターの階数表示を何度も見上げた。
一刻も早くドアが開いてくれることを祈りながら。
「娘ちゃん、どんなキャラクターが好きなんですか?」
「えっ、娘? そうね……今は“ぺこミミちゃん”かな。」
「ぺこミミ……何すかそれ。」
「耳が垂れてるウサギのキャラクターよ。やたらと色んなことに謝るの。大人から見るとちょっとシュールなんだけど、娘はすっかり気に入っちゃって。保育園で使う小物も、ぜんぶそれで揃えてるの。」
「へぇー。」
「……って、なんで急にそんなこと聞くの?」
「いや、なんとなくです。」
「ふーん……。」
一瞬、会話が途切れた。けれど品川は、ふいに別の話を持ち出す。
「てっきり先輩、結婚するもんだと思ってました。だから、産休育休から戻ってきても“未だ独身”って聞いた時、正直びっくりしたんです。」
「……まぁ、普通は結婚、よね。」
なぜ今さらそんな話をするのか。千夏には意味がわからなかった。ちょうどその時、エレベーターが到着の音を鳴らし、二人は乗り込む。
密室の静けさの中で、品川の声が低く響いた。
「なんか……育児も仕事も全力で頑張ってる先輩を見てたら、完全に心を持っていかれました。やっと、決心がついたんです。」
「えっ? 何? どういうこと?」
「あー……そうですよね。鈍感な先輩には、俺の気持ち伝わってなかったですよね。」
「え……?」
「俺、娘ちゃんの父親になってもいいって思ってます。今度、娘ちゃん紹介してください。」
その言葉に、千夏は言葉を失った。心臓の鼓動だけが、やけに大きく耳に響いていた。
「先輩のタイミングでいいですから。俺、いつまでも待ってるんで」
その一言を残し、エレベーターはちょうど三十一階に到着した。扉が開くと同時に、品川は軽やかに先に降りていく。
取り残された千夏は、しばしその背中を見送ったまま立ち尽くした。
さっきまでの言葉が、まだ胸の奥で反響している。
――待ってる。
ドアが閉まりかけて、慌てて千夏も足を踏み出す。廊下に出ると、少し先を歩く品川の背中はもういつもの距離感に戻っていて、まるで何事もなかったかのようだった。
けれど千夏の鼓動だけは、簡単に“いつも通り”には戻ってくれなかった。