ピースな私と嘘つきなヒツジ
6.緊急事態
品川からあの予想もしなかった言葉を告げられて、一週間。
けれど彼はそれきり、何事もなかったように振る舞っていた。
「先輩、例の資料をファイルサーバーに入れておきました。確認お願いします。」
不意に名前を呼ばれ、千夏の胸がひときわ大きく跳ねる。
振り返れば、そこに立つのはいつもの品川。淡々とした声、変わらぬ表情――。
まるで、先週のあの言葉は幻だったかのようだ。
「……あ、うん。今日、来客の予定があるから、それまでには見ておくわ。」
「急ぎじゃないんで明日以降でも大丈夫っすよ。」
自分でも驚くほど声が上ずりそうになり、千夏は慌てて笑みを整えた。
――彼はただの後輩。
そう言い聞かせながらも、名前を呼ばれるたび心臓が不自然に跳ねる。
気のせい、そうに決まっている。
このあと待っているのは、凪が曲を手がける商品の打ち合わせ。広告代理店も来る。仕事の話に集中しなければならないのに、
(後輩のことを、どうしてこんなに気にしてるの…?私はただ、意識しすぎてるだけ。そうよね…?)
書類に目を落としても、何度も同じ行を行ったり来たりしていた。
(こんなときは、コーヒーでも飲んで気持ちを立て直さないと。)
心の中でそうつぶやき、千夏は机を離れた。扉の横にある端末にカードをかざすと、電子音が短く鳴り、カチリと錠が外れる。重たい扉を押し開けると、午前中の廊下には多くの社員が行き交い、速い歩調で足音を響かせていた。
少し背伸びをしながら歩き出す。目的地は、いつものリフレッシュコーナー。そこにはカプセル式のコーヒーメーカーが一台と、自販機が二台並んでいた。
千夏はコーヒーメーカーの横に置かれた紙コップを一つ取り、迷いながらバニラフレーバーのカプセルをセットする。
「もう休憩っすか?」
背後から声がして振り返ると、品川が立っていた。確かに休憩にはまだ早い時間だ。
「なんか今日は頭が鈍っててさ…。これから外出?」
視線をやると、品川はきちんと整えられた身なりで、手にはカバンを提げている。
「……そうなんですけど、その前に先輩に渡したいものがあったんで。はい。」
そう言って品川はビジネスバッグを開くと、中から取り出したのは意外にもピンクのプラスチックバッグだった。場違いな色合いが、この空間にひときわ浮いて見える。
「これ、娘さんに……ぺこミミちゃんです。」
差し出された物を受け取ると、中にはぬいぐるみが入っているらしかった。指先に伝わる柔らかな手触りと、掌にほどよく収まる重みが心地よい。
「ありがとう……。澪、きっとすごく喜ぶと思う。」
「娘ちゃんから攻略していこうかと。」
「えっ……?」
冗談めかしたように言い残すと、品川は気恥ずかしそうに頬を人差し指でかき、エレベーターホールへと体を向ける。
「じゃあ、行ってくる。」
「あ、うん……気をつけて。」
軽やかに背を向ける姿を見送りながら、胸の奥がじんわりと熱くなる。
――あの日の、告白めいた言葉は幻なんかじゃなかったのだ。
けれど彼はそれきり、何事もなかったように振る舞っていた。
「先輩、例の資料をファイルサーバーに入れておきました。確認お願いします。」
不意に名前を呼ばれ、千夏の胸がひときわ大きく跳ねる。
振り返れば、そこに立つのはいつもの品川。淡々とした声、変わらぬ表情――。
まるで、先週のあの言葉は幻だったかのようだ。
「……あ、うん。今日、来客の予定があるから、それまでには見ておくわ。」
「急ぎじゃないんで明日以降でも大丈夫っすよ。」
自分でも驚くほど声が上ずりそうになり、千夏は慌てて笑みを整えた。
――彼はただの後輩。
そう言い聞かせながらも、名前を呼ばれるたび心臓が不自然に跳ねる。
気のせい、そうに決まっている。
このあと待っているのは、凪が曲を手がける商品の打ち合わせ。広告代理店も来る。仕事の話に集中しなければならないのに、
(後輩のことを、どうしてこんなに気にしてるの…?私はただ、意識しすぎてるだけ。そうよね…?)
書類に目を落としても、何度も同じ行を行ったり来たりしていた。
(こんなときは、コーヒーでも飲んで気持ちを立て直さないと。)
心の中でそうつぶやき、千夏は机を離れた。扉の横にある端末にカードをかざすと、電子音が短く鳴り、カチリと錠が外れる。重たい扉を押し開けると、午前中の廊下には多くの社員が行き交い、速い歩調で足音を響かせていた。
少し背伸びをしながら歩き出す。目的地は、いつものリフレッシュコーナー。そこにはカプセル式のコーヒーメーカーが一台と、自販機が二台並んでいた。
千夏はコーヒーメーカーの横に置かれた紙コップを一つ取り、迷いながらバニラフレーバーのカプセルをセットする。
「もう休憩っすか?」
背後から声がして振り返ると、品川が立っていた。確かに休憩にはまだ早い時間だ。
「なんか今日は頭が鈍っててさ…。これから外出?」
視線をやると、品川はきちんと整えられた身なりで、手にはカバンを提げている。
「……そうなんですけど、その前に先輩に渡したいものがあったんで。はい。」
そう言って品川はビジネスバッグを開くと、中から取り出したのは意外にもピンクのプラスチックバッグだった。場違いな色合いが、この空間にひときわ浮いて見える。
「これ、娘さんに……ぺこミミちゃんです。」
差し出された物を受け取ると、中にはぬいぐるみが入っているらしかった。指先に伝わる柔らかな手触りと、掌にほどよく収まる重みが心地よい。
「ありがとう……。澪、きっとすごく喜ぶと思う。」
「娘ちゃんから攻略していこうかと。」
「えっ……?」
冗談めかしたように言い残すと、品川は気恥ずかしそうに頬を人差し指でかき、エレベーターホールへと体を向ける。
「じゃあ、行ってくる。」
「あ、うん……気をつけて。」
軽やかに背を向ける姿を見送りながら、胸の奥がじんわりと熱くなる。
――あの日の、告白めいた言葉は幻なんかじゃなかったのだ。