ピースな私と嘘つきなヒツジ
「うーん、そうだな……悪くはないんだが。」

課長はそう言って、テーブルに置かれたコーヒーカップに手を伸ばした。反対の手には、広告代理店が持ち込んだ三枚のイメージ案。しばらく眺めては唸り声を漏らす。
一口だけコーヒーを含み、カップを静かに置くと、向かいに座る代理店の担当者たちに向かって、まるで『どうぞ』と言うかのように軽く手をひらりと動かした。

「と、おっしゃいますと……どのあたりが?」

勧められたコーヒーに遠慮がちに手を伸ばしながら、担当者が不安げに問い返す。

「うーん……どれも整っていて、綺麗ではあるんだがな。どうにも“これだ”っていうインパクトに欠けるというか……。」

課長が腕を組みながら唸る。

「インパクト、ですか……。」

代理店の担当者たちは顔を見合わせ、様子を伺うように言葉の続きを待った。

「商品のイメージやテーマには、どれもそれなりに合ってはいるんだがね……。」

課長が机の上に並んだデザイン案を指でとんとんと叩く。千夏も隣で、手元の資料をめくりながら真剣な眼差しを向けた。確かにどれも完成度は高い。色合いも構図も整っている。だが、見た瞬間に心を掴む“何か”がない。

(言われてみれば……確かに。)

千夏は内心で頷きながらも、ふと視界の端に入った凪の姿に違和感を覚えた。

――なぜ、凪がここに?

この部屋に入った瞬間に千夏は思った。今日の打ち合わせは、テレビCMや動画広告ではなく、雑誌やポスターといった紙媒体の企画についてのものだ。だからこそ、千夏は完全に油断していた。まさか今回の打ち合わせに、凪が代理店の担当者にくっついて現れるなんて、想定すらしていなかったのだ。

その姿を目にした瞬間、千夏の心の中で、静かに小さな警鐘が鳴った。

欠けている“何か”を絞り出そうと部屋が静まり返った時だった。千夏のスマートウォッチが着信を知らせた。

『さわやか保育園』―――澪が通う保育園。

(熱でも出したのかしら…?今朝はとても元気だったのに…。打ち合わせが終わったら直ぐに折り返し電話しなくちゃ…。)

千夏は、わずかに震えたスマートウォッチを一瞥しながらも、画面を伏せて打ち合わせを続けるつもりでいた。だが、その動作を見逃さなかった人物が一人。

課長だった。

彼は、もともと子育てなど妻に任せきりで、家庭の話をすることなどほとんどなかった男だ。だが、孫が生まれてからというもの、まるで別人のように育児に熱を上げるようになっていた。その課長が、ふと沈黙を破る。

「娘さん、何かあったんじゃないか? ここはいいから、すぐ電話に出なさい。」

低く、しかし柔らかい声。
その言葉に、千夏の手が止まる。課長の座る位置からは、スマートウォッチのディスプレイがはっきり見えたのだろう。

「……っ」

小さく息を呑む千夏。そのやり取りを、凪は黙って見ていた。
「娘さん」という言葉が出た瞬間、彼の瞳がわずかに揺れる。驚き――いや、何かそれ以上の感情が、静かにそこに浮かんでいた。

「どうぞ、電話に出てください。」

その言葉を聞いた瞬間、室内の空気が一気に張りつめた。
広告代理店の担当者の声には、どこかただならぬ気配を感じ取ったものの緊張が滲んでいた。

「……すみません。ありがとうございます。」

千夏は小さく頭を下げ、そっと課長の顔をうかがう。
その視線が「早く出ろ」と言わんばかりに促しているのがわかる。

「もしもし……。――えっ? 澪が、救急車で!?」

耳に飛び込んできた言葉に、千夏の心臓が凍りついた。
“救急車”という音が現実を引き裂くように響き、胸の奥が熱く、痛くなる。
思わず息をのむ千夏の表情を見て、課長は何も言わずに手をひらひらと振った。
「もう行け」と、その仕草がすべてを語っていた。

千夏は室内の全員に深く頭を下げ、震える手で鞄をつかむ。
席を立ったその瞬間、

「僕、車なので送りますよ。」

静かにそう言って立ち上がったのは、ずっと黙って会議を聞いていた凪だった。
無駄のない動きで荷物をまとめ、彼は千夏の隣に並ぶ。
二人は何も言わずにミーティングルームを後にした。
背後で閉まるドアの音が、いつになく重く響いた。
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