死神キューピッド
「あの、すみません」


おずおずと近づいてくるのは……。


ああ、あのときの若い母親か。


長い髪をおろして、動きやすそうなスリムジーンズで子供のすぐ後ろに立つ。


「あ、あの、この前は本当にありがとうございました」


「いや、俺は、なにもしてないっす」


このガキを助けたのは、亡くなった患者だ。


むしろ、俺はあの場にいたのに、なにもできなかった。


転落した患者を、助けられなかった。


あの場合は仕方なかったと誰かが言ったとしても、そういうことじゃない。


もし、俺が風船をこのガキに渡さなかったら、あの患者は死なずにすんだかもしれない。


「でも、この子がなにも知らないでいられるのは、あの場からすぐに、あなたがこの子を抱きかかえてくれたから」


「いや、つうか。ま、無事でよかったな」


ひとの命が砕けて散ったところを目の当たりにして、正直、立ち直れてはいなかった。


もし、あのとき、親父に会いに病院に来なければ。


もし、あのとき……。


そんなこと、考えてもキリがないのはわかってる。


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