禁断×契約×偽装×策略
 仮に息子が寝返ろうとしても、親がNGと言えば抱え込むのは不可能というわけだ。貴哉は唸った。だが、ここで引き下がるつもりはないらしい。

「雪乃以外のことで取り引きしたい」
「今の時代、結婚したってすぐに離婚できる。夫人を騙すために偽装結婚するなんて易いことじゃないのか?」
「結婚なんて絶対に許さない」

 斉木は両腕を開いて首をすくめた。

「貴哉さん、この人が協力してくれたら、奥様の弱点を握れるかもしれないのよ?」
「お前は斎木と結婚するつもりなのか!?」
「斉木さんが言う通り、離婚なんて簡単にできるわ」
「ダメだ!」

 貴哉は怒鳴ると雪乃をぎゅっと抱きしめた。

「俺はずっとお前を見守ってきたんだ。お前は俺のものだ! 誰にも渡さないっ」
「でも……」

 雪乃の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「私、貴哉さんが好き。でも私たちは結ばれることはないのよ」
「それはっ」

 雪乃はかぶりを振った。

「宇條グループを守らないといけないのでしょう? お父さんたちのためにも。貴哉さん自身が、そのためならなんだってするって言ったんじゃない。私が誰かと結婚するくらい我慢しないと。それに、とっても簡単なことだわ。誰と結婚したって、心は変わらないもの」

 握り拳を作って激情を耐える貴哉の表情が苦渋に満ちていて痛々しい。

「君たち、兄妹じゃないのか? 好きとか俺のものとか、おかしいだろ」

 斉木が驚いたような顔で聞いてきた。当然の疑問だ。雪乃と貴哉は神妙な顔つきで斉木を見返し、それから視線を逸らした。

「雪乃さんは宇條社長の娘ではないのか?」
「娘だ。間違いない。だけど、いろいろ事情があるんだ。それは、今は言えない」

 だが、斉木は少し考えたように天井を見つめ、貴哉を指さした。

「雪乃さんが社長の娘で、君たちが想い合っているなら、専務の君は社長の息子ではないってことになる」
「……息子だよ」
「戸籍上は、ってことかな?」
「…………」

「なるほど。君は社長の血を引いていないわけだ。ってことは、夫人がどこかの男と関係をもって何食わぬ顔で産んだってことか。まぁ、バレたところで、既婚の女性が産んだ子は問答無用で夫の戸籍に入る。なるほど。夫人が躍起になって雪乃さんを追い出しにかかっているわけだ。雪乃さんが宇條家を継いだら、お払い箱になるだろう。しかも世間に出せない話だから、陰で嫌がらせはできても正々堂々戦うことはできない。そりゃあ、死んでほしいだろうね」

 雪乃が理解できずに悩んだことを、斉木はあっさりと解いてしまった。

「面白そうだ話だよ。専務に乗ろうか」

 軽い口調で言われて貴哉のこめかみがビクリと震えた。

「そのほうが、決着がついたあとの利益が大きそうだ」
「俺の頭が上がらないくらいか?」

 ふと、斉木の目を眇め、鋭いまなざしになった。

「僕はビジネスマンだ。他人に売る恩も、リターンのためだ。君が僕に利益を与えてくれる限りは裏切らない。当然、君も同じで僕からリターンを得られる。こういうのはどうだろう。縁談を進める。表向き、結婚式も挙げる。だが、籍は入れない。そのことを知っているのは、僕と、君と、雪乃さんだけ。君は表向き妹を取られることを我慢しなければならないが、最後の最後だけは死守できる。僕は雪乃さんと本当の夫婦にはならないが、宇條家の権威を利用できる。どうだい?」

 貴哉は奥歯を噛みしめた。

 完全に斉木のペースになっている。だが、ここのノーと言えば、斉木の金をあてにできなくなるかもしれない。そうなるとプロジェクトは大幅に後退し、戦略の練り直しを余儀なくされるばかりか、信用を失って頓挫するかもしれない。

「今ここで返事をすることはないよ。そうだね。一週間後というのはどうだろう」

 その時、貴哉のスマートフォンが鳴り出した。

「出てくれていいよ」

 斉木に言われてスマートフォンを確認すると、画面には飯塚の文字があった。貴哉の眉間のしわが深くなる。

「もしもし」
『貴哉様、今、どちらにいらっしゃるのですか!?』

 ずいぶん慌てたような飯塚の口調に貴哉は驚いた。冷静沈着の権化のような男なのに、と。

『社長が倒れられて緊急搬送されました。すぐに来てください!』
「――父さんが倒れたと言って雪乃を連れだしたのは先生じゃないのか? それを信じろと言うのか」
『そのことは後程弁明します。すぐに向かってください。同行の者が主治医のもとに搬送を頼んだとのことです。早く!』

 耳元に飯塚の怒鳴るような大声が続けて響いて貴哉は真実なのだと悟った。

「今日は出張だ。どこで倒れたんだ?」
『東京駅、プラットフォームに下りた途端に倒れたとの報告です』
「……そうか。すぐに向かう」

 通話を切り、貴哉は斉木に顔を向けた。

「社長が倒れたそうだ。今から病院に向かう。取り引きの返事は一週間後。もしかしたらそれよりも早くするかもしれないが、今は一週間後と言うことで約束したい」
「了解した。僕もその間、お互いが裏切れないような条件が他になにか考えさせてもらうよ」
「他に?」
「君は雪乃さんが僕と結婚する方法を採りたくないんだろ?」
「…………」
「でも、思いつかなかったらさっき話した通りで」

 斉木は言うと右手の人差し指をクイッと左右に振った。行け、というゼスチャーだ。

「雪乃、行くぞ」
「はい」

 二人連れ立って部屋から出た。そして早足で進む。貴哉に状況を聞きたい雪乃であるが、急いでいることもあってとても尋ねられる状態ではない。ホテルのタクシーの乗り場に到着し、後部座席に乗り込んで貴哉が行き先を告げる。そこでようやく実康のことを聞くことができた。

「お父さん、悪いの? 薬みたいなのを飲んでたよね?」
「狭心症を患ってる」
「狭心症……」
「あまりよくないんだ」
「奥様は?」

 貴哉はかぶりを振った。

「これは俺しか知らないことだ。母さんや、祖父さんたちがなにを企むかわからないから黙っていた。でも……今回のことでバレるだろうな。社の者と一緒の時に搬送されたなら連絡が行っているはずだ。でも……」

「貴哉さん?」
「飯塚先生が母さん側だったのなら、とっくにバレていたかもしれない。不覚だ。いや、俺たちが甘かった。まさか顧問弁護士が裏切るなんて予想もしなかった」

 悔しがる貴哉を雪乃はただじっと見つめることしかできない。

(貴哉さんは今までどんな気持ちで過ごしてきたんだろう。父親と血がつながっていない事実、母親の不貞の末に生まれた事実、血のつながった父親がその真実に苛まれて自殺した事実。どれほど悔やんで、苦しんできたの。今も母親が私を遠ざけようと画策してここまで助けに来た。それなのに、まだ苦痛が起きるなんて)

 脳裏に実康の顔が浮かんだ。

(お父さん、お願い無事でいて。私たちを置いて行かないで!)

 ただ無事を祈るしかなかった。

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