禁断×契約×偽装×策略
 それから一時間ほどが過ぎてようやく病院に到着した。豊洲からお茶の水という距離なのにずいぶん時間がかかったのは渋滞していたからだ。

 そこから手術室に急いだ。扉の前には飯塚がいた。彼の姿を見た雪乃はなんとも言えない複雑な思いを抱いた。弁護士という人の秘密を知ることのできる立場にいながら、雇い主である実康や貴哉を裏切っていた男。京香に従って雪乃を斉木のもとに連れていった男。

(そもそも、大学で声をかけてお屋敷に連れてきたのも、この人)

 下ろしている手が怒りで拳に変わった。

「父さんはっ!?」
「まだ手術中でして、なんとも」
「母さんはどうした? まだか? それとも連絡していないのか?」
「申し訳ありませんが、私は秘書ではないので、ご家族の出来事を逐一報告する立場にありません」
「なに!?」

 声を荒らげる貴哉を、飯塚は手で制した。

「病院の、手術室の前です。声をひかえてください」
「――――」

「お嬢様を斉木様のもとにお届けしたのは、奥様に呼び出され、命じられたからです。正直、職業上から申し上げれば、不本意です。ですが、私は宇條物産の顧問弁護士であると同時に、宇條実康様の代理人でもありますので、そのご家族からの命令では従わざるをえません。そこはご理解いただきたいです」

 正論だ。貴哉は唇を噛んだ。

「雪乃様を送り届けた後、社に戻りました。貴哉様とすれ違う形になったのでしょう。知らせを受けてから私が連絡したのは貴哉様だけです。奥様へは秘書がしなければ連絡は行っていないでしょう」
「……わかった。それは俺が確認する。どうせ電源を落として遊び惚けているんだろう」

 貴哉は不思議そうな顔になった雪乃を見て苦笑を浮かべた。

「あの女は、遊びに出かけた時は、邪魔をされたくないからスマホの電源をオフにしてるんだ」

 それから貴哉は、はあ、と大きなため息を落とした。

「飯塚先生は戻ってくださってけっこうです。お手数をかけました」
「いえ、社長の手術が終わり、無事を確認するまでいさせていただきます」
「……そうですか。ご随意に」

 貴哉はプイっと顔を背け、雪乃の肩に手をやってロビーチェアに座るように促した。飯塚は二人から少し離れたロビーチェアに腰を下ろした。

 それからどれくらい経っただろうか。
 雪乃はどうやらうとうとしていたようで、誰かに呼ばれたような気がして自分の意識を自覚した。

(お母さん?)

 そう思うと、綾子の笑顔が浮かぶ。

――お父さんをよろしくね。

 そう言っている声を聞いた気がする。

(嘘よ。お母さんは一度だって、お父さんの話はしなかった)

 とても幼い頃、父親がどこにいるのか聞いたことがある。その時、とても悲しそうな顔で、「遠くにいるの。お願い雪乃、お父さんのことは聞かないで」と言われて、それっきり口にすることはなかった。

 当時は『遠く』という言葉を『天国』だと思った。亡くなってしまっていないのだと。だからこそ聞けなかったし、聞く必要もないと思ったのだ。その後、綾子の『いとこ』が『父』ではないかと思うようになっても、やはり口にすることはなかった。だから綾子は雪乃に『お父さん』について、どんな些細なことであっても言うことはなかった。

(だけど、やっぱり、そう思っていたんだろうな。自分が死んだら、私がお父さんの傍に呼ばれることをわかっていたんだと思う)

――お父さんをよろしくね。

 綾子は口にこそしなかっただけで、ずっとそう思っていたに違いない。雪乃を見つめるまなざしを、その時はわからなかっただけで無意識に感じ取っていたのだろう。だから今、夢で見ているのだと。

(お母さん。私、これから娘としてたくさん孝行したいの。お願い、お父さんをそっちに連れて行かないで。まだ連れて行かないで。お願い。ここには来るなと、まだ早いと、お父さんに言って)

 そんなことを考えている間に意識はどんどんはっきりしてきて、雪乃は目をあけた。
腕を組んだ貴哉が、少し寄りかかるようにして眠っていた。少し先にいる飯塚は姿がなかった。時計を見ると夜の十時を過ぎたところだった。

 まだ手術中を示すランプは赤く灯っている。雪乃が大きく息を吸い込んだ時、その赤いランプがふっと消えた。

「あっ」

 思わず出た声と、動いた体に貴哉が目を覚ました。

「雪乃?」
「ランプが消えたわ」

 手術室の扉が大きく開き、執刀医が出てきた。

「先生」
「手術は無事に終わりました。大丈夫ですよ」
「ありがとうございました」

 執刀医に続き、看護師たちがベッドを運んでくる。酸素マイクをつけた実康が眠っている。顔色は悪くない。

「無事に終わって安心しました」

 いつの間に戻ってきていたのか、背後から飯塚の声がした。三人そろって看護師たちのあとに続く。個室に到着してベッドをセッティングすると、看護師はすぐに執刀医と主治医が揃ってここに訪れると告げて一度下がっていった。

 病室がシンと静まり返る中、飯塚が二人に話しかけてきた。

「目が覚めるまでまだしばらく時間がかかると思います。私は一度戻ります。明朝また参りますので。失礼いたします」

 飯塚は深く一礼して去って行った。
 それを見送ると、今度は貴哉のスマートフォンが振動を始めた。電話ではなくチャットアプリに向けてのメッセージだ。展開し、貴哉はチッと舌打ちする。

「母さんだ。明日の朝、祖父さんたちと一緒に見舞うってさ」
「……そう」
「さっそく祖父さんと対峙しろってことだろう。クソ女」
「…………」
「雪乃はどうする? 一度帰るか?」
「うぅん。傍にいる」
「そうか。じゃあ、佐久間たちに着替えを持ってきてもらおう」
「そんなこと、秘書の人にお願いしていいの?」
「彼女たちはそれ込みで雇っているし、雪乃の件が決着するまでの期間限定だ。公私混同してこき使っているわけじゃない。心配しなくていい」
「うん」

 今夜はここで過ごすことになるが、この病室は病院の中でも一番いい部屋だ。広いし、横になれるだけのソファも設置されている。佐久間たちが着替えを届けてくれたらシャワーを浴びて眠ればいい。

 二人はベッドサイドの椅子に腰を掛け、眠っている実康を見つめていた。だが、雪乃はふと貴哉に視線を移し、それから視線を足もとに落とした。

「斉木さんのこと、信じる?」
「いや」
「取り引きには応じないってこと?」
「別の案を考えたい」
「別の案?」
「籍を入れないにしても、結婚式を挙げて世間に結婚したことにするなんて我慢できない」

 貴哉の言葉がジンと胸の奥深くに落ちてくる。だが、京香や、その背後にいる実家の佐上家より優位になるためには斉木と手を組むことは有益だと雪乃は思うのだが。

「私は……別にいいと思うんだけど」
「…………」
「籍だってぜんぜん気にならない」
「雪乃!」

「だって、そんなの自分の気持ちと比べたら、天と地ほど重みに差があるもの。たとえ斉木さんと本当に結婚したって、私にとっては貴哉さんが誰よりも大切なことに変わりないから。ただ守られているのは嫌だわ。偽装することで優位になれるなら、願ったり叶ったりだと思う」

 驚く貴哉を見てふっと微笑む。そして貴哉の頬にそっと手をやり、撫でた。

「血がつながっていない、本気で私を想ってくれている、それがわかってどれだけ嬉しいかわかる? 貴哉さんのためならなんだってする。できる。佐上家に勝ってから、私たちの望む形にすればいいじゃない。斉木さんなら、簡単に離婚してくれると思うわよ? だって彼が欲しいのは宇條グループの後ろ盾でしょ? 安定した利益だから」

「だけど」
「よく考えて。私のために判断を誤らないで。お願い」

 両手で貴哉の顔を挟むようにして触れ、雪乃はそっと唇にキスをした。

「雪乃」
「勝つのよ。お父さんを安心させるためにも、私たちのためにも。私、ぜんぜん怖くないから。貴哉さんを信じてる」

 雪乃の脳裏には、幸せそうに笑い合う実康と綾子の姿があった。
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