禁断×契約×偽装×策略
第六章 反撃
 夜が明けた。うとうととしていた雪乃は、物音を聞いたような気がして目を覚ました。もしかして、と思ってベッドに歩み寄って実康の様子を見るが、まだ意識を取り戻してはいないようで、瞼は固く閉じられている。

 雪乃は椅子に腰を下ろした。昨夜の間に佐久間が着替えを持ってきてくれたので、シャワーも済ませている。今、特にすることはない。顔を洗って歯を磨くくらいだろうか。雪乃は実康の顔を見下ろしながら、小さく吐息をついた。

(奥様がどういう人かなんてどうでもいいけど、でも、薄情よね)

 貴哉が何度も電話をかけ、ようやく十時くらいにつながった。だが京香は翌日に行くと言って駆けつけることはしなかったのだ。夫が倒れ、大きな手術を受けたというのに。

(お父さんはお母さんに癒やしを求めていたんだろうな。私が知ってるお父さんは、いつも優しく笑っていて、優しい人だと思っていたもの。冷たい奥さんと、親友の忘れ形見で大切だけど血のつながらない息子に心を削られていたんだと思う)

 せつなすぎる。
 はあ、ともう一度ため息をつく。

「雪乃……?」

 後方から声がした。貴哉が目を覚ましたようだ。

「父さんは?」
「まだ」

 貴哉がこちらに歩み寄り、隣に座る。しばらくぼんやりしていたら、貴哉が立ちあがった。

「腹が減った。お前も食べるか?」
「うん。おにぎりがいい」

 佐久間が衣類と一緒に食べる物も用意してくれているので、貴哉はローテーブルに戻ってビニール袋の中身を広げた。おにぎりもいろんな種類があった。

「梅とか明太子とかあるけど?」
「なんでもいい。二つくらい食べたい」
「了解」

 二人しておにぎりを食べ、ペットボトルのお茶を飲み、一息つく。時計を見ると六時半を過ぎようとする時刻だった。

「貴哉さん、お仕事があるでしょ? 私がいるから、貴哉さんは会社に行ってもらっていいよ。なにかあったらすぐに連絡するから」
「…………」
「大丈夫よ。ここ、病院で、たくさんの人がいるし、看護師さんとか行き交いしてるから」

 貴哉は少し考えたふうであったが、すぐにかぶりを振った。

「少なくても母さんが来るまではいる。お前と二人にはできない」
「でも……」
「すぐに来なかったことも引っかかる」

 どこまで自分の母親を疑っているのだろうかとも思うが、実の父親の悲惨な末路を思えば警戒しても仕方がないのだろう。

 それからしばらくの間、二人はスマートフォンを見ていた。雪乃は電子書籍を読み、貴哉はメールをチェックして返信するなどの仕事だ。八時になると主治医と看護師が訪れたが、実康の意識はまだ戻っていないので、体温や血圧などを確認して帰っていった。

 入れ違うように扉がノックされ、飯塚が現れた。

「おはようございます。社長の様子はいかがでしょうか」
「変わらない」
「……そうですか」

 それから沈黙が落ちた。貴哉はまだ怒っているようで自らなにか言う気はないようだ。飯塚もそれを理解していて、ベッドの傍に立って実康をじっと見下ろしている。雪乃はどうしていいのかわからず、落ち着かなかった。思わず立ち上がって飯塚に声をかけた。

「あの、飯塚先生、なにか飲まれますか?」
「雪乃、そんなことしなくていい」
「でも……」
「お嬢様、お気遣いは無用です。喉は渇いていませんし、必要になったら買いに行きますので」
「……そうですか。でも、昨夜、佐久間さんが飲み物も用意してくれたので、そちらのテーブルに」
「雪乃!」

 貴哉に遮られ、雪乃はビクリと肩を震わせた。

「お気になさらず」
「……はい」

 消えそうな声で返事をし、雪乃は視線を彷徨わせ、そして落ちるように椅子に腰を下ろした。

 気まずい時間が流れる。実康の様子は変わらず、まったく目を覚ます様子がない。時計が九時になろうとした時、病室の扉がノックされ、開いた。

 入ってきたのは京香だった。黒のベルベットスーツはボディラインがくっきり出るもので、五十を過ぎた体とは思えないプロポーションだ。どこの女優が入ってきたのかと思うほどであった。

 京香はまっすぐベッドの脇にやってきて、眠っている実康を見下ろした。

「手術は成功で、問題ないと聞いたわ。よかったわね」

 ウソ臭い言葉だ。貴哉が鋭く睨んでいる。

「だけど今回のことで、いつ、なにがあるかわからないと思い知らされたわね。貴哉さん、早く結婚して跡継ぎを作らないといけないわ」
「…………」
「お祖父様が用意してくださったお見合い、ちょうどいいじゃない」

 見合いという言葉に雪乃はハッと胸を衝かれ、京香の美しい顔を凝視した。自分ではなく、貴哉の話なのか、と。

「お見合いと言えば、雪乃さんにも紹介したのよ。昨日、会っていたんじゃなくて?」
「あの……はい」
「どうだった?」
「貴哉さんのお仕事に協力してくださっているとかで、先方は前向きのご様子でした」
「あなたは?」

 素早く切り込まれてたじろいだが、ここで負けてはいられない。雪乃は腹の底に力を込めた。

「よく考えてお返事したいと思っています」
「気に入った?」
「礼儀正しくて丁寧な印象を受けましたので」

「そう。よかったわ。なら、あとは貴哉さんね。お相手の女性、お祖父様の知人のお孫さんで、家柄も容姿も申し分のない人だわ。宇條グループにとって大いにプラスになる方よ。なんたって、お祖父様が選りすぐってくださったのだから」

「佐上の息のかかった女なんて御免だね」
「それは聞き捨てならんな」

 いきなり声がして、雪乃と貴哉は驚いて振り返った。いつの間に病室に入ってきていたのだろうか。まったく気づかなかったが、ソファの近くに和服姿の老夫婦が立っていた。そのすぐ後ろには付き人と思しき小柄な老人が控えている。

 紹介などされずとも誰だかわかる。貴哉の祖父母、佐上洋司郎と英麻《えま》だ。

 雪乃は自分の体が小刻みに震えていることに気づいた。佐上はけっして大柄ではない。それなのに得体のしれない迫力があった。

 恐怖から少しでも逃れようと無意識に視線を動かせば、視界の端で礼をしている飯塚を捉えた。しかしながら、とてもその様子に意識を向ける余裕などない。雪乃は震える手をさり気なく重ねてギュッと掴んだ。

「貴哉よ、儂が懇意にしている関係者を、息がかかっているなどと言ってはいかんな。それは失礼極まりないぞ」
「…………」
「逆のことを言われたら腹立たしいだろうが」
「そうですよ。あなたは宇條グループを背負っていく人なのよ。多くの社員やその家族を守っていかなければならないのだから、物事は冷静に、公平に見ないといけないわ」

 英麻が続けて言い、コロコロと笑った。

「とっても綺麗なお嬢さんなのよ。ピアノやバレエをされていたから立ち姿も美しくて上品だし、しかも留学経験もおありだから英語とドイツ語がご堪能でね。お父様は大手老舗薬品会社のオーナーで、家柄もしっかりしているし、本当にあなたにぴったりだと思うわ」

「そういうものに興味はないんだ」
「そういうもこういうも、これこそが大事でしょうに。家族になって一緒に過ごしていたら情は湧くものなのよ」
「それはどうかな。俺はそれが違っていることをよく知っている」

 貴哉は言いつつ顔を京香に向けた。だが、京香は動じることなく微笑んでいるだけだ。
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