※エリート上司が溺愛する〈架空の〉妻は私です。

 紗良が出勤したことにより、店内はようやく落ち着きを取り戻し始めた。
 それにしても目が回るような忙しさだった。
 紅茶フロート目当てのお客様が次から次へと訪れ、片付けたばかりのテーブル席は軒並みあっという間に埋まっていく。
 
「あ、ミツコさん。いらっしゃいませ」
「あら紗良ちゃん、今日は日曜なのに出勤なの?」

 スピカの常連客であるミツコがやってくると、紗良はテーブルを片付ける手を一旦止め入口まで迎えに行った。

「すみません。本当はいつもの窓際のテーブル席にご案内したいんですけど、今いっぱいで……」
「あら、そうなの?別のお席でもいいわよ」
「こちらにどうぞ」

 紗良は足が不自由なミツコの手を取り、カウンターまで案内した。
 ミツコはスピカの長年の常連で絵本の中から抜け出たようなコロコロとした笑い声が特徴の七十代の老婆だ。
 五年前に夫に先立たれてからは、気ままな一人暮らし。スピカでお茶をする時間が一番楽しいと言って毎日のように通ってくれる。
 弥生はもちろん紗良にも気さくに話しかけてくれて、たまに家庭菜園の野菜をお裾分けしてくれる。

「いつものカモミールとバタークッキーでいいですか?」
「ええ、ありがとう」
 
 ミツコはいつもバタークッキーをお供に弥生が淹れるカモミールを飲んで一時間ほど滞在していく。
 そんなミツコだったが、今日は紅茶を飲むとすぐに帰り支度を始めた。

「ごめんなさいね。今日はこの辺で帰らせてもらうわ。また今度」
「あ、ミツコさん!!」

 紗良と弥生が引き留める間もなく、ミツコは帰っていってしまった。カウンターの上には釣り銭のないようにお勘定が置かれていた。

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