大江戸ガーディアンズ

おつたは目を(すが)めた。

与太の素性を見極めようとするがためだ。


町家でありながら奉行所(おかみ)の「御用聞き(手先)」になろうなんて酔狂な者は、博奕(ばくち)打ちか香具師(やし)くらいだ。

博奕打ち(博徒)は胴元となって密かに盆を敷いては、客に二つの賽子(さいころ)の出た目の和(合計)が半(奇数)か丁(偶数)かを賭けさせ、その賭け銭の上前(寺銭)を跳ねつつ、時には真剣師として自ら客と相対(あいたい)した。

また、香具師(的屋)は株(営業証)を持たぬため同業の組合である株仲間に入れず堂々と店を構えることができないが、代わりに株仲間への上納金や御公儀への冥加金(営業税)から免れることができ、方々の寺社などで開かれる祭りにその都度出向いては、その日限りの屋台を出して荒稼ぎしていた。

いずれも、いつ奉行所(おかみ)に目をつけられてお縄になるやもしれぬ身の上だ。

されど、御用聞き(手先)と云う「犬」になって奉行所(おかみ)の手足のごとく動いていれば、もしや何かあったとて御公儀の「お目溢(めごぼ)し」に預れるかもしれない。


しとしとと小雨が降る中、此処(ここ)まで駆けてきた所為(せい)で与太の着物はじっとりと濡れていた。
ゆえに、両袖とも肩まで(まく)り上げている。

その手は流石(さすが)に日に焼けてごつごつとした「職人の手」であったが、手首から上がった先にある力強そうな腕は両方とも傷痕ひとつない綺麗(きれぇ)なものだった。

——歳若いってのもあるんだろうけど、身体(からだ)にゃまだ墨を入れてないようだねぇ……


江戸の湯屋(ゆうや)ではごく(たま)に、やけに鋭い目つきして只者(ただもの)ならぬ風情(ふぜい)であるにもかかわらず、傷ひとつない綺麗な背中をしている男を見かけた。

それは、何処(どこ)にも傷が付くことがないほど……つまり、何処にも傷痕が残りもしないほど、滅法界もなく「喧嘩に強い」(あかし)である。

一匹狼もいるにはいるが、たいていは知らず識らずのうちに人が寄ってきて、気づけば子分たちを束ねて「一家」を構える——正真正銘の「親分」と呼ばれる立場になる。

巷からも、いつしか「侠客」とも「極道」とも呼ばれるようになる。

さような者に云わせれば、背中に墨を入れるなぞ「野暮」より間が抜けている「半可通」のすることであった。

ゆえに、いつまでも「白い」まんまだ。


——まさか……どこぞの「一家」の跡取り息子ってんじゃないだろね……

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