紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど

   ◇

 祖父からその話を聞いたのは、亡くなる間際のことだった。
 お見舞いに行った病院のベッドに横になった祖父はもう骨と皮だけになっていた。
 そんな祖父の震える手を私はただしっかりと握りしめることしかできなかった。
 かすれた声でぽつりぽつりと祖父が聞かせてくれたのは、私の知らないおばあちゃんとの思い出話だった。
「律子はとにかく花が好きでね。新婚旅行で当時はまだ珍しかったヨーロッパ旅行に連れていってやったんだよ。オランダのチューリップ畑なんかは涙を流して喜んでいてね。ガーデニングの本場イギリスでは、ロンドン観光なんか興味ないからって、レンタカーを借りて田舎巡りをしたもんさ。そしたら、その車が故障しちまったんだな。まだ携帯電話なんてない時代だったから、通りすがりのお宅で電話を借りて修理屋を呼んだんだけど、電話が終わって庭に出てみたら、そこの奥さんにお茶をごちそうになっててね。愛する夫のことなんかすっかり忘れちまって、庭に咲いてる薔薇の話に夢中になってたんだよ」
 頬をゆるませた祖父の耳元に口を近づけて私はたずねた。
「おばあちゃん、英語が話せたの?」
「それが全然。ハローとサンキューくらいだよ。なのにちゃんと話ができてるんだから、薔薇好きの連中ってのは、何語でしゃべってたんだろうな、いったい」
 おじいちゃんは朗らかに声を上げて笑った後、しんみりとつぶやいた。
「癌が見つかったときには手遅れでなあ。律子は亡くなる間際まで何度も何度もイギリスでごちそうになったお茶の話をしていたもんだよ」
 それっきり黙り込んだ祖父は眠ってしまったようだった。
 私が手をさすると、目を閉じたまま、ため息のようにつぶやいた。
「若い時に連れていってやれて良かったよ。それだけが救いだな」
 それから数日後に亡くなったとき、私は病院に間に合わなかった。
 でも、おそらく、安らかな気持ちで旅立ったんだろうと思う。
 天国でまた愛する人のために薔薇を育てることができるんだから。
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