紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど
「怖いのは当たり前だ。怖いという感情を抱くのは悪いことじゃない。自分の中にある感情を意識することから、自分を解き放つ一歩が始まるんだ。そんな君の気持ちを分かっていたはずなのに、驚かせてすまなかったな」
「いえ、大丈夫ですから」
「自分が何を怖がっているのか、決して強がって否定したり、封じ込めてしまう必要はないんだ。恐怖と向かい合うことができているだけで、それは大きな前進なんだよ」
 玲哉さんの言葉はすうっと私の心の中にしみこんでくる。
 今までは渦に巻き込まれて自分自身を見失ってばかりいた。
 だけど今は自分が何を恐れ、何を拒絶しようとしているのか、ちゃんと向き合うことができている。
 どんな勇者だって、巨大な魔物を前にしたら震えおののくだろう。
 だけど、目の前にいる敵の姿がはっきりと見えるだけでも、不安は消えていくのだ。
 なんだか分からない恐れや怒りほど自分をむしばむものはない。
 私は決別するべき対象をはっきりと客観的に、今まさに暗い窓の向こうに移る自分の姿のように、自分自身の外側に出すことができたのだ。
 もう内側に魔物はいない。
 それだけでも昨日と違う大きな進歩なんだ。
「玲哉さん」
 彼の腕の中で私はくるりと向きを変え、笑顔を作って見せた。
「パジャマ似合いますよ」
「ん、そうか」と、彼も笑顔を返してくれる。
 ――そう、それでいい。
 新婚の二人を演じることが、今の私たちにとって一番の癒やしなんだ。
「新しいパジャマの匂いって、新しい生活だなって感じがしていいですよね」
「そうか。どんな匂いだ」
 クンクンと私のことを嗅ぎ回る玲哉さんから逃げようとすると、意地悪してかえって腕に力を込められてしまう。
「紗弥花はいい匂いがするな」
「もう、やですよ。変なところ嗅がないでください」
「じゃあ、ここはどうだ?」
 玲哉さんが私の胸に顔を埋めてくる。
「パジャマの匂いがするぞ」
 そのままソファに押し倒されて、獲物を探す猟犬と化した夫にいろんな所を嗅がれてしまう。
 もう、そんなところまで。
 いつの間にか器用な指先にボタンを外されていた。
 せっかくおそろいになったパジャマなんて、もうそんなことはどうでも良くなっていた。
 どうせ脱がされるために着たんだし。
「愛してるよ、紗弥花」
「私も……」
 月並みな言葉をささやくことすらもどかしく、彼の愛撫は激しさを増していく。
 こうして私はまた、昨日と同じように、この男の作り出す沼に溺れていくのだ。
 その沼から浮かび上がるのは、金の私、銀の私、それともあなたしか知らない私?
 今日もまた、私も知らない私の引き出しが彼の技巧によって開け放たれ、羞恥心というスパイスが彼の欲望をあぶり出す。
 狂おしいほどの初夜の儀式がソファの上で始まっていた。
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