Filigran.
「思ったけど、雪乃は『俺』に対しては『弓弦君』って呼ばないよね」
最初に話題を切り出したのは彼の方だった。
「さっきみたいに『推し』の俺に対しては呼ぶんだけど、目の前にいる『俺』には言ってくれない」
そのことを自覚していなかった私は、「えっ」と一瞬言葉に詰まる。
隣で見るとイヤーカフもつけているらしい彼は、
今日の見た目には合わない儚さで今にも消えてしまいそうだ。
チラリと私に視線をよこしてから言う。
「ねぇ『俺』のことも名前で呼んで?」
私はずっと、
目の前のこの人が本当に存在することを、信じ切れていなかったのかな。
「でも…その、やっぱり」
ドキドキしちゃうんだ、好きな人だから。
呼びたいけれど呼べない。
二人の影が歩道に伸びて、私の制服のスカートが揺れるのを見つめて
ふと私は、絶対に今聞くべきではないことを思い出した。
「…あれ、そういえばなんで私の学校の場所知ってたんですか」
今の空気にそぐわない私の唐突な質問に面食らったらしい彼は
「え?」と動揺している。
「なんで昨日、私の学校に来れたのかなって」
私の質問に少しだけ目が泳いでいる。
昨日、どうやってバイト先に来たのか聞いたときと同じ反応だ。
いつもは飄々としている彼のそんな表情がなんだか可愛くて、
「教えてくれたら私、名前で呼べるかもしれないです」
ちょっとの悪戯心でそう言うと、彼は観念したように「…もう」と言ってから、
「雪乃、制服で握手会来たことあるでしょ」
「…あの後ちょっと調べた。案外近い学校だなって」
そう告白するや否や心底恥ずかしそうに手の甲で顔を隠して、
「…分かってるよ、やってることやばいよね」
と言ってこちらを見てくれない。
確かに握手会が平日にあったとき、学校帰りに行ったことがある。
もっとマシな恰好がしたいのにって思ってたけど、
ちゃんと彼の中に私は残ってた。
こうやってアイドルの強く気高い彼だけじゃなくて、
不器用で弱い部分もあるのが、この人なんだ。
いつだってグループの先頭で盾になって、
世間から飛んでくる悪意のこもった冷たい弓を、
「自分には刺さらないから」と嘘を吐いて、自分は血だらけになって。
そんな優しいあなたが、
優しくて脆い、ただの人間のあなたが。
「…弓弦君、覚えててくれてありがとう。」
そう言って、不意を突かれたように目を丸くする弓弦君に笑いかけた。