雪降る夜はあなたに会いたい 【上】
母の顔を見るのが何より怖かった。
何か変わってしまったのではないかと不安で、後ろめたくて。家に帰る前に、何度も駅のトイレにある鏡で確認して来た。
東京郊外にある市営団地、私が住む棟の前に来ると、自分のいるべき場所を思い知らされた。ほんの少し前までいた場所は、現実じゃない。私の生きている世界は、母と弟と慎ましやかに生きているこの場所だ。
重い足で最上階まで階段で上がる。おそるおそる開けた錆びついた鉄のドアが、いつもより重く感じた。
「今日は遅かったね。バイトのない日でしょ? 連絡もなく遅いのなんて初めてだったから心配したよ」
心の準備も出来ないうちに現れた母に、ただただ心臓が激しく騒ぐ。
これまでずっと、父親がいない分母と力を合わせて生きて来た。そんな母に嘘なんて吐いたこともない。
「ごめんね。大学の友達が体調崩しちゃって。落ち着くまで様子を見てたの。その子、一人暮らししてるから心配で」
これが、初めて母についた嘘だ。
「それなら仕方ないね。でも、連絡くらいはしてね」
「うん。もう遅いからお風呂入って寝るね」
逃げるように風呂場へと駆け込み、すぐに熱いシャワーを頭から浴びた。
初めて誰かに抱かれた。見た目は何も変わらないのに、確実に私の中の何かが変わってしまった。身体にまだ残る感触が私に現実だと訴えて来る。
涙が後から後から溢れて次々に蘇って来る。あの人の腕に抱かれている間は、こんな私でも女だった。そして、間違いなく幸せだって思えた。
でも、もう終わったこと。あの人と私の間には何もない。この胸に残る甘い痛みも、肌に残るあの人の熱も、涙も全部このシャワーで洗い流す。
また、明日から元の私に戻るのだ。