突然、あなたが契約彼氏になりました
 菜々には聞こえないが、この場の空気を支配しているのは小塚なのだ。菜々は目を凝らして耳を澄ませていた。もどかしくなる。彼は、田中に対して何と言ったのだろう。

 田中は不意を突かれたかのように唇を噛み締めている。顔から血の気が一気に抜け落ちたかのようになり言葉を失くしている。

(あらら、どうしたの? 田中さんの様子がおかしいよ……)

 小塚は張り詰めた世界を制圧する王者のように優雅に笑みを浮かべている。

 ただならぬ空気が張り詰めており、田中は何か言い返そうとしていたのだが……。

「ぐっ……」

 何かが田中の心を挫いたようなのだ。田中は愛らしい顔に焦りと絶望の色を滲ませると、幕引きするようにして立ち去っていったのだ。

 
            ☆


『うっそーー。王子、一身上の都合で会社を辞めたみたいよ』

 表向きは、一身上の都合で辞めた事になっているけれども、真相はこうだ。小塚はネット上で騒がれている事柄についてこう説明したのである。

『あれを書き込んだのは田中さんです』

 田中は会社のパソコンを使って書き込んでいたのだから、馬鹿の極みと言えるだろう。

 小塚を中傷した文章の中に会社の名誉を毀損する内容も含まれていた。これによって会社のイメージを大きく損なっている。なぜ、こんな事をしたのかと上司に問われた田中は何も答えなかった。しかし、上層部は、小塚と田中が菜々を巡って争ったが故にこんな事になったのだと考えている。

 そして、あいつは馬鹿な奴だと呆れているらしい。

『田中さん、あなたが、すみやかに会社を辞めて、なおかつ、僕の菜々へのストーカー行為を辞めると誓約書に書いてくださるのなら訴えたりしませんよ』

 小塚は、そう告げて今回の事を終息させたというのである。 

 突然、田中が会社から消えた事で女子社員は動揺しているが、徳光さんはホッと胸を撫で下ろしている。

「これて安心ね。詳しい事は小塚から聞いてちょうたい。あたしはパーティーに行くわね」

 徳光さんの交友関係は謎に満ちている。徳光さんは大学時代は英国で過ごしており、その時の仲間との交流が続いているらしい。

(何にせよ、もう田中さんと関わらなくても済むわ)

 金曜の夜。小塚に呼び出されて、一軒の、こじんまりとした小料理屋に向かっていた。横並びの席に着いてすぐに菜々は尋ねた。

「あの、気になっていたんですけど。小塚さん、あの時、田中さんの耳元で何て囁いたんですか?」

「ああ、あの時、こう言ったんです。高校時代、田中先輩は放課後の美術室で美術部の部長とキスしてましたよね……」

「ええーー。それ本当ですか」

「いや、僕は見た事はないけど、徳光さんが見た事があるそうですよ」

「でも、それだけで、あの人、あんなふうに凍り付いたんですか……」

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