突然、あなたが契約彼氏になりました
 昭和生まれのおっさんに、セクハラとは何ぞやを悟らせるのは難しい。セクハラ部長は、小塚の指導によってスキンシップとセクハラの違いが分かり、今では、女子社員も、安心して社員旅行に行けるようになったと聞いている。

(小塚さん、あたしのことも時間をかけて聞いてくれて、いい人だったな)

 そんな事を思い返しながら、法務部のフロアのある五階の廊下を進んでいると、背後から田中に呼びかけられたのでドキッと肩を揺らした。

「土屋さん、僕宛の郵便物はある?」

 思わず顔が引き攣りそうになるが、イタリア製のハイブランドのスーツ姿の田中は天真爛漫に話しかけてくる。

「あっ、いえ、今日はありません」

「あのさ、こないだのことなんだけど、土屋さん、酔っ払って眠っちゃっただろう。オレ、心配したんだよ。ちゃんと家まで帰れたの?」

 その時、菜々の心がズキッと上擦った、このように優しい言葉をかけてくる人を疑うなんて自分はどうかしている。ある種の後ろめたさを抱えながら答えた。

「あの日は徳光さんの御宅に泊まりました」

「ああ、そうなんだ? ねぇ、今週の金曜、美味しいフレンチレストランに行かない?」

「いえ、あの……。週末は用事がありまして」

「それじゃ、いつ、予定が空いてるのかな?」

 そういうふうにグイグイと来られると困る。
 
 菜々は警戒と困惑の表情を滲ませる。こんな時、徳光さんがいたらと願わずにはいられないが、彼女は、昨日から香港に出張している。英語と広東語がペラペラの彼女は通訳として借り出されていたのだ。

「オレ、菜々ちゃんのこと、もっと知りたいんだよ」

 いつもは土屋さんと呼んでいるのに、菜々ちゃんと呼ばれて背筋がゾワゾワと毛羽立った。駄目だ。みんなは、田中をカッコいいと崇めているが、歳の割りに子供っぽいような気がする。いつだったか、フロアにゴキブリが出た時、マジで嫌がっていた。

 ゴキブリぐらいで騒ぐなよと感じたのを思い出しながら言う。

「えーっと、亡くなった主人の両親のお店の手伝いがあるので当面は無理です。ほ、他の人を誘ってください」

 お店の手伝いなんて嘘なのだ。すると、田中が無邪気な声で呟いた。

「それなら、この後、ランチを一緒にどうかな? 総務の人に聞いたよ。徳光さんは出張中なんだよね」

 いかん。このままでは田中に押し切られてしまうと感じて後ずさっていると、背後から小塚の声が響いた。

「あの、ちょっといいですか。土屋さんに急用があるのですが……」

 ナイスなタイミングである。さりげなく田中から引き離し、なおかつ、自分の背後へ菜々を促がしながら告げている。

「すみません。土屋さんをお借りしますね」

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