月へとのばす指
相手への感情が、すうっと冷えて、別の物に変わっていくのを感じた。理解してもらえると思ったわけではなかった。けれど──
『あなたの意見はよくわかった。なら、これでお別れよね』
『ああ、おまえみたいな女、こっちから願い下げだよ』
じゃあな、と背中を向けて去っていく相手に、未練は感じなかった。その代わりに底冷えするような虚しさが、その時の唯花の心を占めていた。
……ただ、むなしくて、悲しかった。
──目を覚ました時、薄明かりの中に見えたのは知らない天井だった。
見ていた夢の余韻で、すぐに起きあがる気にはなれず、ぼんやりと数十秒、その天井を見ていた。そのうち思考が現実に戻ってきて、ここはどこだろう、と考えるだけの余裕が出てくる。
(……そうか、私、ロビーで調子を崩して)
残業を終えて帰る途中、息苦しくなってうずくまっていたところに、声をかけられたのだ。藤城次長──久樹に。
大ごとにしたくなかったし、対処法はわかっていたから、救急車は拒否した。なら代わりに自分の家で休んでいけ、と言われて正直戸惑った。
仮に他意は無いにしても、男性の家である。おまけに相手は、唯花に告白してきた相手だ。下心がまったく無いと考える方がむしろ不自然だろう。
……わかっていながら、自分は断らなかった。
されるがままに久樹に連れられ、タクシーに乗せられて、ここまで来てしまった。
そこまで考えてからやっと、右手が誰かに握られていることに気づく。はっとして横を見ると、椅子か何かに座った久樹が、唯花の右手を握ったままうつらうつらとしていた。
思わず手を引こうとした拍子に、彼をがくりと揺らしてしまった。しまったと思った時には遅く、久樹は目を開けてこちらを見た。視線が合う。
「……あ、」
「…………」
手を握られたまま、唯花は固まる。どう反応すべきなのかわからない。
「館野さん、具合は?」
「え、っと」
胸が押さえつけられるような感覚はない。息苦しさは治まっている、はずだ。
「たぶん大丈夫、です」
「そっか、よかった」
握った唯花の手に、久樹は唇を押し当てた。初めて感じる感触に、心臓がどくりと脈打った。うるさいぐらいに鼓動の音が耳元で響く。
慌てて身を起こし、寝かされていたベッドを抜け出そうと動く。
「あ、あのすみません、すっかりお世話をかけてしまって。帰りますね」