月へとのばす指
「帰る、って今二時半だぞ」
スマートフォンの時計を確認して、久樹が焦ったように言う。握り直されかけた手を、唯花は素早く引いた。
「タクシー拾いますから。大通りがどっちか教えてもらえれば」
「何言ってんだ、危ない。朝まで休んでいけば」
「いいえ、これ以上ご迷惑は」
押し問答を続けてしまうのは、彼のそばにいるべきではない、と直感が訴えかけているからだ。これ以上一緒にいると取り返しがつかなくなる、そういう予感があるから。
周囲に目を走らせながらベッドから下り、床に置かれていた自分のカバンを拾い上げて玄関に向かおうとする。
が、腕を後ろから思いのほか強い力で引かれ、ふらついた拍子にカバンを床に落としてしまった。
「あ、悪い……」
「……いえ」
思わず振り返り、窓をぼんやり浮かび上がらせる夜景以外に光のない暗がりの中で、唯花は久樹と見つめ合った。
「…………」
あまりにもまっすぐに視線がぶつかってしまって、言葉が出てこない。暗い中でもわかってしまう強い視線に縫い止められたように、体が動かせない。
……どうしよう。
逡巡しているうちに、もう一度腕が引かれる。今度はそのまま、久樹の腕の中に囚われてしまった。
いつもは細身に見えていた彼も、当然だが、男性なのだ。肩幅の広さ、胸の硬い筋肉が、密着するとよくわかる。
はっと我に返り、唯花は離れようと身じろいだ。だが久樹の腕の力は、ただ巻き付いているだけのようなのに強く、解放してくれない。
それどころか、唯花がもがくごとに少しずつ、その力が強まっている。気づけば上半身は完全に拘束され、顔が久樹の胸に押しつけられていた。
「唯花」
名前を呼ばれ、息を飲む。どうして知っているのだろう……ああ社員カードか。不思議なほど冷静にそんなことを考える。だがもちろん、それ以外の頭の中、心は冷静ではいられなかった。
「ふ、藤城さ」
「どうしても俺はダメか?」
硬い、張りつめた声に、再び息を飲んだ。
「俺のこと、どうしても男として見られないなら、諦める。でももしそうじゃないなら……少しでも意識してくれてるのなら。一度だけでいい、俺のものになってほしい」
一度だけ、俺のものに。
その言葉の意味がわからないほど、唯花はウブではなかった。二十九年生きていれば耳にも目にも、そういう情報は入ってくる。