君を忘れてしまう前に
「そうだけど。さっきレッスンが終わったとこだし、まだ後片付けとか打ち合わせとか色々あるだろうから、すぐにここに来るなんて思ってなかったんだよ」
「あ、さっきの仁花、顔が押し潰されてて面白かった」
「わたしがいたの知ってたの!?」
「知ってたよ」
サラはストレートティーの入ったペットボトルのキャップを開けながら、しれっと答えた。
一度だってこちらを見なかったのに、わたしの存在に気づいていたなんてびっくりだ。
しかも大勢の生徒達に囲まれながら、あれだけの演奏をこなしておいて、どういう感覚なんだろう。
天才がすぎる。
無言のままサラを見つめていると、目の前の美青年はなにもなかったような飄々とした顔でストレートティーを一口飲んだ。
「仁花こそ準備は? この後、公開練習あるんだろ」
「ちょっと考えごとしてたんだ」
「考えごとってなに」
「いや……わたし、全部上手くいかないなあと思って」
「ふぅん。それで?」
相変わらず返事は素っ気ないものの、続きを聞いてくれているからこのまま話してもいいらしい。
嫌な時はハッキリ言うのがサラの特徴でもある。
だからこそ本音を話すのに勇気がいるわけで。
「わたし今からばかなこと言うよ。笑わない?」
「笑わない」
「絶対?」
「絶対」
サラは緩やかに口角を上げながら、ゆっくりと頬杖をついた。
まともに見るのが眩しいくらい綺麗な微笑みだ。
「じゃあ、ほんとに言うね。わたしって、どれだけ練習しても上手くいかないし、そもそも人の前で演奏できるレベルじゃないなって。こんな状態でコンサートに出ても恥かくだけだなって思ってさ」
「それで?」
「なんでコンサートに出られるんだろう、わたしよりも才能がある人はたくさんいるのに。コンサートに出る人達が凄すぎて付いていけないよ」
自分で言ってて凄く情けない。
そんな弱音を吐いている時間があるなら練習しろ、と注意されても仕方のない内容だ。
それもストイックに輪をかけたようなサラの前で、これだけ恥ずかしい言葉を口にして。
いやそれよりも、こんな醜態を晒しているにも関わらず、まだサラに少しでもよく思われたいと心のどこかで思っているわたしは真の大馬鹿者だ。
「あのさ」
サラの低い声に、ドキリ、と鼓動が跳ねる。
「音楽、好きなんだろ。じゃあ、好きにやってみれば? 自分がなにしたいか分かんないまま舞台に立っても、聴き手は面白くないに決まってんじゃん。音は心そのものって言うだろ。迷いがあると、音も迷うよ」
サラは穏やかな口調で、ベンチの背にどかりと荒っぽく身を預けた。