君を忘れてしまう前に


 今はまだ本番じゃない。
 ただの練習だ。

『なにも怖がんなくていいよ』

 以前、サラもそう言ってくれた。
 だから大丈夫。
 そう自分に言い聞かせている間に、客席から初めての拍手が沸き起こった。

 なにごとかと顔を上げると、サラと香音さんがステージに上がったところだった。
 客席の拍手は、2人の演奏への期待から生まれたものだったらしい。
 サラは客席に向かって軽く会釈してから、慣れた手つきでヴァイオリンを構えた。
 わたしなら、プレッシャーに押し潰されてまともな演奏なんかできないだろう。
 でもサラは特に気にした様子もなく、落ち着き払った表情でピアノの前に座る香音さんと目を合わせた。

 ヴァイオリンの瑞々しい旋律と、その旋律を穏やかに照らす、春の陽だまりのようなピアノの伴奏が、会場の空気をふわりと軽くする。
 この間の公開練習の時とは比べものにならないほど、2人の演奏レベルが上がっている。
 それに――。

「ねえ、あの2人、息がぴったりだよね」
「ほんとにそう。こんなの学生の域、超えてるじゃん」

 すぐそばから、小さな話し声が聞こえてきた。
 わたしもそう思う。
 伸び伸びとしたヴァイオリンを、微笑ましく見守るピアノの優しい響き。
 会話のようなやり取りを終えれば、再び2つの楽器がぴったりと寄り添い、それぞれの音色を奏でる。
 なにもかも完璧だった。

「お似合いだよね。付き合ってるのかな、あの2人」
「絶対そうでしょ。でないとこんな演奏出来ないよ」
「いいなあ、北岡くんと付き合えるなんて夢だよ」
「北岡くんって全然女の子になびかないイメージだけど、香音さんは特別って感じがするよね」
「そもそも普通の子は気軽にアプローチなんか出来ないよね。北岡くんの周りで騒いだり告白する子は、身の程知らずだなと思っちゃうよ」

 その身の程知らずはわたしだ。
 これまでのわたしの行動を思い返すと、死ぬほど恥ずかしい。
 2週間前のサロンでの出来事なんか最低だ。
 リカコ先生みたいになりたいなんて、なにを勘違いしていたんだろう。
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