君を忘れてしまう前に

「仁花の言う友達ってなに?」

 サラは気だるげにグランドピアノに肘をかけ、足を組み直した。
 つやつやの黒髪がサラの不機嫌な目元をはらりと撫でる。
 怒ってはいるけど、完璧に整った顔立ちは綺麗なままだ。

「友達っていうのは……一緒に帰ったり遊んだり。大切な相談もできる人かな」
「それで?」
「それでって……」
「おれはわざわざ人の相談なんかのらない。練習が終わった後、誰かと一緒に帰んのもめんどくさい」
「でも、わたしの相談はいつも乗ってくれてたじゃん。この間は練習室まで来てくれて一緒に帰ったし……なんで」
「なんでだろうな」
「本当は嫌だったけどわたしに付き合ってくれてたの? 言ってくれればわたしやめてたよ」

 サラはバカにしたように笑った。

「おれが嫌って言ったら全部やめんの?」
「サラの嫌なことはしたくないもん」
「それ、おれじゃなくてもよくね」
「え!? なんでそうなるの」
「仁花は一緒にいてくれる男なら誰でもいいんだろ」
「違う! 誰でもよくない!」

 興奮してパイプイスから身を乗り出したわたしを、サラは涼しい顔つきで見下ろした。
 心臓がバクバクして、顔も熱くて、涙でぐしゃぐしゃになったわたしをどう思っているんだろう。
 サラはしばらくわたしを見つめてから、ゆっくりと唇を開いた。

「じゃあはっきり言えば、おれがいいって」
「え……!?」

 弾かれたように背を伸ばすと、パーカーのポケットからスマホが床めがけて滑り落ちていく。
 スマホはサラの足元まで転がり、バックライトが点灯してラインのポップアップ通知が表示された。

「なんで和馬の連絡先知ってんの」

 ディスプレイには「和馬くん」と無機質な文字が浮かんでいる。
 サラはバックライトがやけに明るく光るスマホを拾い、冷ややかな視線をわたしに浴びせた。

「今日のお昼、中庭で会ったから……」
「中庭? なんでそんなとこにいんだよ」
「それは」

 今日の中間発表でやらかした、自分の情けない演奏が脳裏をよぎる。
 あの演奏をサラに見られたのかと思うと、今更だけど恥ずかしい。
 演奏の後、隠れて泣いていたなんてこの場で知られるのはもっと恥ずかしい。
 しかも、和馬くんに慰めてもらったことをサラに知られたら話が拗れるのは目に見えている。

「ごめん。今は言えない」
「秘密?」
「秘密じゃないけど……」
「和馬は優しいからな」

 冷や汗がたらりと頬を伝った気がした。
 サラにはバレていたらしい。
 思わず俯いた瞬間、そうすることでサラに正解だと告げているようなものだとわたしはすぐに後悔した。

「隙だらけだな。仁花って」
「そんなつもりないけど……」
「あの日におれとやったこと、他の男ともすんの?」
「あの日?」

 顔を上げると、目の前にスマホが差し出されていた。
 サラの冷えた瞳の中では、鈍い光がゆらゆらと揺れている。

「あの日って……」

 まさか――いや、ちょっと待て。
 わたしの早とちりの可能性もある。
 今にも暴れそうになる胸を抑え、わたしは差し出されたスマホに手を伸ばした。

「仁花は、なにも覚えてないだろうけど」

 やっぱりあの日のことだ。
 瞬く間に、手に大量の汗がにじみ出る。
 スマホを受け取ろうとしたけど、サラの指にぐっと力が込められて動かない。

「返して、サラ」
「仁花の好きなやつって誰?」
「いきなりどうしたの」
「言えない?」
「言えないに決まってるよ。サラが知ってどうすんの。わたしの好きな人なんか興味ないくせに」
「あるよ。だから教えて」

 いつになくサラは真剣な表情を浮かべている。
 けれど、もしここで正直に言えば、直接本人に告白することになる。
 それだけは絶対に避けたい。

「サラには言えない、ごめん」
「なんで?」
「ごめん。それも……言えない」
「あっそ。ならいいわ」

 サラがスマホからパッと手を離す。
 弾みで後ろに倒れそうになったわたしの手首を、サラは力強く引っ張った。
 でも不思議と痛みはなく、代わりに触れられた部分から優しい熱が伝わって来る。
 サラの手は、こんなに大きかっただろうか。
 中性的な顔立ちからは想像できないくらい逞しくて、わたしの手首なんか簡単に折れてしまいそうだ。

「サラ……?」
「しばらく仁花の顔、見たくない」
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