愛を奏でるワルツ~ピアニストは運命の相手を手放さない~

トラムを降り、目の前に見えるのは『王宮』。
一見普通の白い壁が広がっているようだが、ここは王宮の一部らしい。

「チケット売り場はえっと」

私がガイドブックを広げると、レンがひょい、とそれを取り上げた。

「あ!」
「あぁ、売り場はあっちだな」

私の手にガイドブックを戻し、また私の手を繋いで歩き出す。

「ねぇ、なんで手を繋ぐの?」

彼はきょとんとして視線を手に向けた。

「無意識だった。
迷子になったら面倒だなとは思っていたが。
嫌か?」
「嫌じゃ、無いけど」
「ならこのままで良いだろ」

子供扱いされていることに複雑な気持ちで答えると、彼は優しい目で言った。

チケット売り場の表示はいくつも書いてあり、あれは年齢別なのか、それとも見る範囲なのかすぐにわからない。
ガイドブックを広げようとしたら、

「どうせなら全て見たいだろう?」
「うん」
「なら全て見られるチケットにしよう。
日本語のオーディオレンタルもあるがどうする?」
「借りたい!」

日本語万歳と思っていたら、レンが既にチケット売り場で流ちょうなドイツ語で話している。
そしてチケットを持って戻ってきた。

「ありがとう。いくらしたの?」
「すぐに鞄から財布をだそうとするのやめろ」
「なぜ?」
「そんな大きな財布は使わず、もっと小さいのを小銭入れとして使っとけ。
カードを使うのがどこでも普通だが、カードをすられたらお終いだろうが」
「そう、ですね」

この財布は大きいのか、長財布じゃ無いのに。
でもこれを取られたらカードやルームキーも全てこの中なので確かに終わる。
また怒られてしまったとしゅんとすると、また頭に手が乗った。

「ほら、博物館見たいんだろ。
ここは日本じゃ無い、もう少し危機感を持てってだけだ」
「ごもっともです・・・・・・」

また頭を軽く撫でられ、これは完全に子供扱いされていると確信した。

「ところでレンは何歳なの?」
「33だよ」
「へぇ、なんかもっと年上に思ってた」
「もっと年上っていくつだよ。
そういう楓は高校生くらいかと思ったが」
「学生って言ってたの、大学生じゃ無くて高校生の意味だったの?!」

怒ってバシバシと彼の大きな背中を叩けば、軽い笑い声がする。
いつの間にか、彼が無愛想でいるよりも笑っている顔の方が私の目には当然になっていた。


「これが、エリザベートの体操器具!」

私はガイドブックを握りしめ、感動の声を出した。
ここは迷路のような王宮の中。
その途中の部屋が、シシィと愛称で呼ばれる、王妃エリザベートのものだ。
可愛らしい壁紙の前には、天井から吊り輪のようなものがある。
音声ガイドの説明によると、ここでスタイル維持に励んでいたらしい。

『エリザベート』。
正しい発音はエリーザベトで愛称は『シシィ』。
彼女は元々今の南ドイツにあたる、バイエルン王国の姫として伸び伸びと育っていた。
それが栄華を極めていたハプスブルク家のオーストリア皇帝に見初められ、予想外に妃として嫁ぐことになってしまう。
自由でいたかった彼女はハプスブルク家という檻に入れられ、彼女は反抗する。
檻を抜け出すため、彼女は人生のほとんどを旅行して回った。
そんな彼女は、自分の美しさが武器になる事を理解していた。
だからこそ、こういった道具で自分のスタイルを美しく保つ努力を欠かさなかったらしい。

「詳しいな」

私があまりエリザベートに興味を持っていないレンに説明すると、感心している。

「そもそも私が歴史が詳しいとかじゃなくて、ミュージカルを観た影響で調べたの」
「あぁ、『エリーザベト』か。
こっちでも大盛況だが俺は観たことが無い」

レンはネイティブにエリザベートの正式名称で呼んだ。

「そっか、当然ここでやってるよね。
旅行先をウィーンに決めた理由は、ここを見たいのと楽友協会でコンサートを聴きたかったからなの。
エリザベートをミュージカルで観たときにとても感動して、すぐさまエリザベートを調べたらこういう場所がウィーンにあるって知って。
おかげで色々勉強になったなぁ」
「オーストリア・ハンガリー帝国なんて、日本なら学校で習うんじゃ無いのか?」
「そこつっこまないでよ。
ハプスブルク家とかもちろん知っているけど、エリザベートの人生なんて何も知らなかった。
ミュージカルの話とは言え、彼女がミュージカルでの死を意味する『トート』、妖艶な黄泉の帝王の愛に捕らわれるのも無理はないって思う。
現実では美しさを利用され、母でいること、王妃である事をひたすら求められれば逃げたくもなるよね、元々が自由な性格だったんだし」

博物館は有り難いことに観光客が少なく、こうやってレンと話していても周囲には誰もいないので迷惑にならない。
昨日知り合ったばかりの見目麗しい男性と、数百年前ここを使っていた王族と同じ場所にいる、本当に不思議な気分だ。

「レンは、そのまま王子様役をやっても問題無さそうだよね」

私の軽口に彼の眉間に皺が寄る。

「客寄せは散々やっている」
「そうなの?」
「あぁ。
だから、少しだけ彼女の気持ちが分かる気がする。
自分の事を何も知らない人間と場所で、自由な時間を過ごしたいと」

レンの目は先の展示物を見ているようで、その目には何も映していないように見えた。

「それじゃまるでどっかのお姫様と新聞記者の映画みたいじゃない。
もしかしてレン、本当に王子様、なの?」

それはあり得る。
もしかして護衛の人が捜して回っているとか?!

恐る恐る聞くと、くっ、とまた笑い声がして私は睨む。

「そんな訳がないだろう。
単に外見を利用されることが多いってだけだ」
「あぁ、なるほど。
そうだよね、そのルックスなら。
さっきのチケット売り場の女性だって、なんか嬉しそうにしてたし。
今はサングラスを外してるけど、さっきはしていたのにそれでもモテるって凄い」
「さすがに室内だと暗くなるから外すけどな。
へぇ、チケット売り場で?それはわからなかった」
「きっとそういう視線に慣れきってるんだろうねぇ」

自分には想像できない状況だから不思議そうに言うと、彼はなぜか目を細めた。

あぁ、駄目だ。
もうわかっている、自分の感情が。
最初は彼の外見の良さから、ミーハーな気分でいるのだと思っていた。
けどやはり、どんどん彼に惹かれているのだ。

出逢った最初から彼は優しかった。
きっと今日観光に付き合うと言い出したのも、子供のような私を一人では放っておけなかったのだろう。
笑う顔は子供のように可愛いくて、優しい目をする。
無表情で冷たそうな顔や声とのギャップはあまりに大きくて、その笑顔を向けられた女性はきっと誰だって恋に落ちるだろう。

こんな場所で知り合ってもどうなることもない。
彼は優しくてただお節介を焼いているだけ。
勘違いしてはいけないけれど、もう少しだけ非日常を味わいたい。

「どうした?」

彼が私の顔を覗き込み、私は無理に笑顔を作る。

「ううん。
美人に生まれたら、それはそれで大変なんだろうなって。
私には想像がつかないもの」
「楓くらいがちょうど良いんじゃ無いか?」
「なにそれ」

馬鹿にされていると非難の目を向けると、彼はまた私の頭を撫でる。

「褒めてるんだよ」
「どこが!」
「ほら、次行くぞ。
どうやら最後はシシィが旅行先などに持っていった、豪勢な銀食器などのコレクションがあるらしい」
「見る見る!」

彼は当然のように私の手を取って歩き出した。
その手を、私も当然のように軽く握り返した。
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