その涙が、やさしい雨に変わるまで
 そうこれは、数ある案件のひとつ。そのひとつを、わざわざ三琴に確認してほしいという。

(これ、協議前っていっていたわよね)
(なんで私が確認するのかしら?)
(採用の見込みがあるかどうか、意見がほしいってこと?)

 発案直後の0号案は、日の目を浴びることなく消えていくものがほとんどだ。菱刈が個人的に力を入れていて、それを何が何でも通したいと願っているのかもしれない。
 
「確認して感想を述べることはできますが、私に裁量権はありません。今日はお時間が厳しかったみたいですが、後日、副社長と直接ご相談なさったほうが、確実に通るかと思います」

 この三琴のセリフは真実だ。三琴に権限も何もないのである。
 それに菱刈は瑞樹と出身校の先輩後輩の仲であれば、瑞樹の腹心の部下でもある。なにも元秘書の三琴を介して交渉する必要はないと思われた。

 手渡された封筒をテーブルの上に置き、手を離す。もちろん中身の確認などしない。
 秘書時代にもこんな相談を持ち掛けられることがあったが、三琴はすべて断っていた。いまだって菱刈を優遇するつもりはないし、もう三琴は秘書でなく受付嬢だからできない相談でもある。
 
「そうしようかと思ったのですが、これは他の幹部にオープンにされていない内容だったので、ひとまずあの場では遠慮しました。あなただって、午後のミーティングにいなかったことですし」

 ちらちらと封筒に視線を遣りながら、菱刈がいう。
 この菱刈のセリフも真実だ。本多は公休で退社していた。三琴は受付カウンターにいて、上層階の幹部フロアにいなかった。本多の代理の秘書がそこにいても、久しぶりに帰国した菱刈にとっては知らない顔であったのかもしれない。菱刈の話が通じそうな秘書はひとりもそこにいなかった。

< 109 / 187 >

この作品をシェア

pagetop