その涙が、やさしい雨に変わるまで
――殿下ってのは、副社長のこと。
――最初は「瑞樹様」だったんだけど、ちょっとあからさまだからって誰かが「殿下」って呼んだのよ。
――創業家一族の御曹司で、未来の社長だから、敬意をこめて受付ではそう呼んでいるんだよ!
瑞樹のいる役員フロアは社屋の上層階にあり、配置替え先の受付部門はグランドフロアにある。「殿下」なんて呼び方、まさに下から上を仰いでいるかのような副社長への敬称であった。
いまさらながらに、三琴は瑞樹の評判を知る。
(私、殿下って呼ばれている人と恋愛していたんだ)
「殿下」と陰で呼ばれる瑞樹から花束を捧げられ、受け取る自分の姿がもう一度、三琴の脳裏によみがえる。それは、よくある姫と王子の恋愛ファンタジーの一場面に相違ない。
瑞樹が「殿下」なら、あのシーンでは三琴はさしずめ「姫様」である。
――姫様、どうぞお受け取りください。あなたのために、ご用意いたしました。
もう二度ときくことのない瑞樹のセリフを、また三琴は思い出してひとりメランコリックになる。
「あ、殿下、いっちゃった~。でも今日はお目にかかれて光栄だったわ!」
一昨日まで一緒に仕事をしていた三琴にすれば、瑞樹と顔を合わせることは日常茶飯事だった。
でも、受付部門の彩也子は違う。高層階の住人の瑞樹が、外出の際にグランドフロアまで下りてはきても、常にその姿を目撃できるとは限らない。同じ社の人間であっても姿をみることができるかどうかは、瑞樹の存在は売れっ子芸能人の域である。
そう考えると、ますます「殿下」の敬称が瑞樹に相応しい。
(私、「殿下」と恋愛していたんだ)
(一年だけだったけれど)
(極秘交際だったから、誰も知らないことだけど)