その涙が、やさしい雨に変わるまで
 だが、そんな三琴の喜びは一瞬で終わった。
 ふたりの交際をオープンにするその日の午前、瑞樹は転落事故に遭い、記憶を失った。
 急に持ち込まれた案件に、瑞樹は三琴との約束を昼へと変更していた。それを終えて、三琴の元へ向かう直前のことだった。

 不思議なことに、瑞樹が失った記憶はプライベートなものだけ。直前の一年分である。
 業務にかんすることにも一部曖昧なところがあったが、仕事を行う上では問題なかった。
 そう瑞樹の失った記憶は、よりにもよって三琴と恋人として付き合っていた一年分であった。

 事故に遭った瑞樹は通行人によって病院へ運び込まれた。現場には黒々とした流血痕ができて、雨であったにもかかわらず、なかなか消えなかった。転落事故の酷さを物語る。

 そんなこと、夢にも思わっていない三琴は、遠くの待ち合わせのカフェで瑞樹の到着を待っていった。
 これから向かう先は、業務では馴染みの会長夫妻だ。顔なじみといえども普段の業務とは全く関係のない結婚挨拶となれば、勝手が違う。どう振る舞うのがいいのだろうか?
 そんなことを考えながら、喜びの緊張の中にいた。
 今にして思えば、間抜けな自分の姿である。


「さーて、殿下もいってしまったことだし、もうすぐ営業開始の時間でもあることだし、お仕事、お仕事っと!」
 軽い彩也子の声で、三琴は現実に戻る。
「花はこんな感じ。次は……配車システムの説明をするね」
 彩也子に促されて、三琴は受付のあるグランドフロアをあとにしたのだった。
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